砂丘の満月

インサイド・アウト 第19話 ゼアーズ(4)

 方向感覚というものが意味をなさない無の空間の中で、僕の意識は屈曲し押しつぶされそうになりながらも、どこかに向かって進んでいた。視覚と聴覚が失われていても、空間が歪んでいることがわかるのは不思議な感覚だった。

 耳に響いていたお経の声も、親族のすすり泣く声も、余韻を残さずきれいに消え去っていた。宇宙が無に帰ると同時に、僕の意識を宿していた少年のからだもまた量子レベルで分解され、死という概念では説明のつかない形で宇宙と一体になっている。原子も分子もない、そもそも宇宙と呼ぶのがふさわしいのかもわからない虚無の空間においては、姉の死さえもすでにその意味を失ってしまっていた。

 すべてを凍りつくすような永遠の孤独と終わりの見えない生き地獄が、現実問題となって目の前に立ちはだかる。そのとき突如、僕は激しい寂しさに襲われた。

「大丈夫」

 そう自分に言い聞かせた。意識を明瞭に保ちながらも、何もない暗闇の中を永遠にさまよい続ける恐怖を僕はすでに経験していた。だから、どうすればこの孤独から解放されるのかも、ちゃんとわかっている。

 最初に宇宙を創造した時と同じように、意識を一点に集中した。それからできるだけ具体的に、持ちうる限りの想像力を膨らませた。無から有を創り出し、不可能を可能にするイメージを強く思い描く。そして、すでに存在する無数の宇宙の中から手頃なものを選んでちぎり取り、手のひらほどの宇宙を創り出した。瞬く間に無限の広がりと可能性に満ち溢れ、光と闇が伴侶のように寄り添いながらも互いに退け合い、世界に色彩を与えていった。

 僕は、今度こそ姉と夏希が幸せに暮らす世界を創り出そうと誓った。強く願えば願うほど、その想いに呼応するかのように時間はみるみる間に加速していき、宇宙はめまぐるしく変化する。

 気がつくと僕は、見慣れた青い惑星に引き込まれるように無重力空間を漂っていた。

 地上に降り立ち、実家へと向かった。そこには何事もなかったかのように僕の家族が暮らしていた。両親も兄も姉もみんな、見慣れた姿でいつも通り生活している。そこにいるもうひとりの自分を見つけ出し、僕は再びその深層意識の中に入っていった。

 今度はうまくやれると思っていた。男の子の意識に直接働きかけることで間接的に男の子を動かし、姉を説得しようと試みた。

 だが、姉はまったく耳を貸さなかった。自分よりも人生経験の少ない六つ下の弟の言葉など、何の価値も持たない子供の戯言でしかなかった。姉は相変わらずろくでもない男たちと交際したのち、例のトラック運転手と結婚し、やはり三年も経たずして離婚して独り身になった。

 そして、雪の降り積もる日の朝、姉は三歳の一人娘を残したままこの世を去った。二十六歳だった。

 試みが失敗に終わったと知ると、僕は再び宇宙を破壊して、再び一から創り直した。だが何度やっても同じだった。僕の想いは姉の人生を変えうるだけの影響力を持たなかった。姉の死を確認するたびに宇宙を創造し、何度やり直しても、同じ結末が待っていた。スクリーンの前に座らされ、必ずバッドエンドをむかえる映画を延々と鑑賞させられているような気分だった。どう足掻こうと、観客は映画自体のストーリーを変えることはできない。ただ唯一できることといえば、その映画を好きな時に止め、再び最初から上映することくらいだった。

 これ以上試しても無駄だということを、薄々感づいていた。それでも僕は、宇宙の破壊と創造を繰り返した。そのたびに姉は病魔に蝕まれて苦しみ死んでいき、夏希は一人この世に取り残され、世界中の生きとし生けるものが何度も宇宙ごと消滅させられた。たった一人の人間の運命を変えるためだけに、多くの命を産み出しては、殺していく。そんな僕は神話上のどの神よりも偉大で、人類史上誰よりも凶悪な殺人鬼だった。

 やがて僕は目的を見失い、姉の生と死のループの中を延々と彷徨うだけの存在になっていた。

 親子電球のこだまだけが点いた寝室は、子供がひとりで寝るには薄気味悪い。

 布団の上で仰向けに寝ている四歳の男の子の視覚を通して、僕は板張りの天井の木目を眺めながら、とりとめもない妄想に耽っていた。本来何の意味も持たない木目は、人の顔に見えたかと思うと、ふとした拍子に獣のように見えることもある。毎夜、男の子が眠りにつくまでの間、僕はそこに現れる〝何者か〟の姿を期待して、木目をただじっと見つめ続けるのだった。

 そういえば昨日も同じことを考えていたような気もするし、一昨日もそうだったかもしれない。いや、もっと以前から、僕は天井の木目を見ては、そこに隠れている〝何者か〟の姿を無理矢理探し出そうとしていたような気がする。

 何度、この世界を繰り返したのだろう?

 途中までは数えていた。でも、途中から数えるのをやめてしまったんだ。なぜ? どうして?

 そういえば二十を超えたあたりから、数えることに意味を感じられなくなって、数えるのをとっくにやめてしまったんだった。そう……、数えることに、意味なんてないんだ。

 ふうっとため息をつく。

 人生をやり直した回数を数えることに意味がないのと同じように、永遠に生きることにもおそらく意味はないのだろう。永遠に生きることと死ぬことの違いが何かと訊かれたら、僕はその明確な違いを説明することができないのだ。それと同じ理由で、〝こうあってほしい未来〟を手に入れるために〝そんなはずじゃなかった過去〟を帳消しにしようとすることも、おそらく意味はないのだと僕は思う。

 そんなことよりも今考えなければならないのは、今できることが何なのか、ということなのかもしれない。

 自分で創り出した宇宙にも関わらず、一人の人間の運命を変えることすら僕には許されていないらしい。だとしたら次に考えるべきことは、どうすればこの生き地獄から抜け出すことができるのか、ということだ。いや、そもそもどうして僕は、宇宙の創造と破壊を繰り返すという、まるで神の所業みたいなことをしているのだろうか? そして……

〈僕が今いる場所は、本当はどこなんだろう?〉

 誰に対してでもなく、僕は問いかけた。今いる場所は幻で、本当の自分はここには存在しないような気がずっとしていた。答えなど期待していなかった。ただ自分自身に対して問いを投げかけたつもりだった。

 しかしこれに、〝何者か〟が反応した。男か女か、子供か老人かも判別できない低いささやき声が、いくつも重なってどこからともなく聞こえてくる。〝彼ら〟なのか〝彼女たち〟なのかわからない不気味な声の集団は、必死になって何かを僕に伝えようとしているようだったが、それぞれの声が互いに打ち消しあっていて、何を言っているのかまったく聞き取ることができなかった。

 ささやき声はやがて支離滅裂な叫び声へと変わっていった。そして、泣き喚いたかと思えば誰かを罵るように怒鳴り散らし、静かになったかと思うと、今度は悲しげにぶつぶつとつぶやきはじめた。

 突然の出来事に、僕はついに自分の気が触れたのかと疑った。そのとき——。


 ——声の正体を知りたいか?——


 今度ははっきりと、男性の声が耳元に語りかけてきた。重みのある低い声だ。だがもちろん、寝室には他に誰もいない。

〈誰?〉と僕は声の主に尋ねた。

 ——私だよ。もう忘れてしまったのかい?——

 すべてを悟ったようなその話し方に、確かにどこかで聞き覚えがあるような気がした。声の主はそのまま話を続ける。

 ——先ほど君が聴いた叫び声は、君と同じように、永遠の生を生き、宇宙の創造と破壊を繰り返してきた者たちなんだよ——

〈僕と同じ?〉

 ——そうだ——

〈……そうですか〉

 ——なんだ。そんなに驚かないんだな——

〈もう、不思議なことにはすっかり慣れてしまいました。それで、どうしてあの叫び声の主たちは、永遠の命を手に入れ、宇宙の創造と破壊ができるようになったのですか?〉

 ——それを知ってしまったら、君も少なからずショックを受けることになるが、それでもいいのかい?——

〈そんなこと言って、最初から僕に教えるつもりで話しかけたのでしょう〉

 声の主は何も答えなかった。それからしばらくして、観念したかのように深くため息をついた。

 ——あの者たちは、等々力によって頭から脳だけを取り出され、実験台にされているんだよ——

〈等々力に? それに、脳だけというのは……〉

 光沢のある黒いベストを身につけた、あの男の姿が条件反射に思い浮かぶ。

 ——脳を取り出され、肉体を失ったあの者たちは、外界からの刺激を得る手段を失ったことにより、その五感はまるで機能しなくなってしまった。機能しないのに感覚だけ残っていると言うのは、地獄の苦しみのようなものだろう。案の定、あの者たちの中には絶望のあまり自らの意思で神経細胞を破壊し、活動を停止した者もいたくらいだった。だがその一方、五感を感知する脳の部位を退化させることによって、それまでの人類が得たことのない新たな能力を身につける者も現れ始めた。その者たちは、三次元空間の物理的な縛りを超え、意識を高次元レベルで分離して空間を移動できるようになったのさ。それだけではない。その者たちは自らの中に新たな空間を産み出し、そこで自らの肉体を得ることにも成功したのである——

〈それは今、僕がやっていることによく似ていますね〉

 ——ああ、その通りさ。君はまさにあの者たちと同じことを成し得た人間なのだよ。薄々感づいているとは思うが、君は、等々力の手によって脳だけを取り出され、ゼアーズの一員にさせられたんだ——

〈ゼアーズ……?〉

 そういえば意識を失う直前に、等々力がそのようなことを言っていた気がする。

 ——ゼアーズというのは要するに、等々力による宇宙創造実験のモルモットにされた人たちのことさ。取り出された脳は、培養液と共に巨大な水槽に入れられ、そこで永遠の生を与えられる。それらの脳のことを、かつて〝彼ら〟あるいは〝彼女たち〟が所有していたものという意味を込め、等々力はtheirsと呼んでいるんだよ——

〈……等々力の目的は、一体何なのでしょう?〉

 ——支配欲と独占欲を満たすためさ。奴は自分が世界のヒエラルキーの最上位に居座り続けることを願っている。自分に都合のよい使い捨ての世界を、奴は欲しているのさ。ところで君は、《原点O》で等々力のいる塔の中に入ったとき、塔の内壁を覆っていた水槽を覚えているかい? 黄金色に輝く液体の入ったガラスの水槽を——

〈……覚えてます。でもそもそも、どうしてあなたは僕があの塔に行ったことを知っているのですか? そして、《原点O》という呼び名のことも……〉

 ——それはね、君がその男の子の中に魂を移したのと同じように、私もまた君の肉体に同じ処置を施したからなんだよ——

 そのとき僕は思い出した。その聞き覚えのある声は、僕が《原点O》に来た時に出会ったうぐいす色のローブの男とまったく同じであるということに。そして、塔の中で見た黄金色の液体で満たされた水槽こそが、僕の意識の本体が存在している場所だということに、今ようやく気がついたのだった。

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