砂丘の満月

インサイド・アウト 第19話 ゼアーズ(1)

 黄金色に輝く無重力空間の中に、僕はいた。

 液体なのか気体なのかもわからない柔らかな媒体で空間は満たされている。時々押し寄せてくる波のようなものに身を任せ、僕は川面を渡る笹舟のように、ゆらゆらと上下に揺れていた。

 ふと、自分の体からあらゆる感覚がなくなっていることに気がついた。何も聴こえないし、何も感じない。暑くもないし、寒くもない。

 黄金色に見えていると思っていたのは、実際に角膜を通して視神経に映り込んだ光景なのではなく、自分の意識が作り出した幻覚だということに、僕はしばらく経ってから気がついた。瞳を開いていても閉じていても、見える景色が変わらなかったからだ。

 そのとき僕は思った。ここはおそらく死後の世界なのだ、と。

 もしかすると、すでに肉体を失っているのかもしれない。感覚がないのではなく、何らかの物理的または化学的刺激を受け取る受容器自体を失ってしまったのかもしれない。目や耳や鼻だけでなく、肉体そのものから、僕の意識は切り離されてしまったのだ。

 だけど不思議と心は安らぎに満ちていた。外部からの刺激に対しては何も感じられなかったが、柔らかな雲の上に寝転びながらひなたぼっこをしているような心地良さがあった。触覚が完全に失われているにも関わらず、人肌にも似た優しいぬくもりが感じられた。ここにいると、どんなことも無条件に受け容れ、すべてを愛せる気持ちになった。

 もしかするとこれが、「母のぬくもり」と呼ばれるものかもしれない。生まれて初めて経験した感覚に、僕はそう考えずにはいられなかった。

 子どもの頃から、僕と両親の間には深い隔たりがあった。父親と遊んでもらった記憶はないし、母の胸に抱かれた記憶もない。当時はそれが当たり前のことだと思っていた。

「お母さん、抱っこ!」

 保育園からの帰り道、自宅までの長い家路に耐えられなかった僕は、よく母に助けを求めた。だけど母は歩みを緩めることはなく、こちらを振り返ることもなかった。大人の歩く速度で三十分以上歩き続けられるほどの体力は僕にはなく、いつも必死になって母の後をついていくのだった。影がどんなに伸びたところで、僕の伸ばす手が母に届くことはなかった。

 そんな僕が母の愛というものを知るわけがない。だからこれが「母のぬくもり」と呼ばれるものなのかどうかを判断することはできない。しかしこれはきっと、神が与えてくれた最後のご褒美なのだろう。もっとも、神という存在を信じたことは今までに一度もないが。

 どちらにせよ、やはり僕は死んでしまったのだろう。状況的に、そう考えるのが一番しっくりくる。

 でも、どうしてこんなことになったのだろう?

 この不思議な空間に来る前のことを、ゆっくりと思い返した。

 僕は《左右対称の顔の女》を探し出すために、原点Oへとやってきたのだった。それからローブの男に会い、深い森を抜け、砂漠の中にそびえる巨大な塔を見つけ出し、そのてっぺんで等々力と瓜二つで同じ名を持つ人間に遭遇した。そこで等々力に肉体を拘束され、巨大な装置の中に入れられた後、気がついた時にはすでにこの空間を漂っていたのだった。

 結局、僕は何もできなかった。《左右対称の顔の女》を助けるどころか、見つけ出すことでさえも。

 ふいに不安が襲ってくる。それと同時に、一面に広がっていた黄金色の景色はほころぶ繊維のように輝きを失っていき、みるみる間に漆黒で埋め尽くされていった。

 これから、どうなってしまうのだろう?

 完全な闇の中で、永遠にも近い時間が、ただただ流れていく。

 何も見ることができず、触れることもできず、時間という概念が意味をなすかどうかもわからない無の中で、ただ時間だけが、過ぎ去っていく。

 さみしい。

 それ以外の言葉が浮かばない。

 さみしい……さみしい……さみしい……。

 繰り返す言葉は虚しく宙を舞うのみ。震わす空気さえない無の空間は、鼻歌で孤独を紛らわすことさえ僕に許してくれない。

 痛みでも飢えでもいい。寂しさを紛らわすために、僕は何でもいいから外部からの刺激が欲しかった。叫びたくても声を出せず、動きたくても微動だにできず、僕はただ膨れ上がる負の感情を黙って飲み込むことしかできなかった。

 どれくらい時が経ったのだろう。

 やがて僕は、自分が置かれた状況を理解した。そして、自分の中に芽生える〝ある可能性〟に気づき始めた。

 ここは楽園だ。僕自身が作り出した、「自分の、自分による、自分のための楽園」なのだ。自分の頭の中にある、誰にも侵されることのない自分だけの世界であり、唯一の聖域——。

 寂しければ、自分の力で何かを創り出せばいい。宇宙でも、地球でも、生命でも、自分の好きなものを創造すればいいのだ。

 僕は意識を一点に集中して、持てる限りの想像力を働かせた。できるだけ具体的に、できるだけ鮮明に、自分の世界が実際に存在するイメージを強く思い描く。

 ほどなくして無の空間はまばゆい光で満ち溢れ、一気に広がりを持ち始めた。エネルギーは分散され、やがて冷めてガスや塵となり、あてもなく空間を彷徨うものもあれば、互いが互いを求め、寄せ集まるものもあった。物質の結合と崩壊を繰り返していくうちに、空間は無数の輝く渦で埋め尽くされた。それは銀河だった。一つ一つの銀河はめまぐるしく回転し、衝突と爆発を絶え間なく繰り返している。

 この世界においては、一部を除き、僕にはほとんどのことが可能だった。時間の流れを加速することもできれば、遅延させることもできた。別の銀河を観察したいと願えば瞬時に100万光年もの距離を移動することもできた。まるで神の力だった。だが、自分に与えられたのは宇宙の〝創造主〟と〝観測者〟としての力だけであり、例えば、一度創り出した宇宙の一部を変えたり、時間を戻したりすることはできなかった。創り上げた宇宙を少しでも変えようと思ったら、すべてを無に戻して、また一から創造するしかないようだった。


 やがて、無数の銀河の中に、地球とよく似た惑星が誕生していることに僕は気がついた。

 何だか懐かしい気持ちになった。闇に放り込まれた時のような孤独感は、もう感じられない。

 そして、僕は思った。

 やり直せるものなら、もう一度人生を送ることはできないだろうか、と。

 命は失われてしまったが、僕は今こうして、宇宙の創造神になっている。観測者としてならば、何だって思い通りにすることができる。だから、その星の生命のひとつに意識を宿し、それこそ生まれ変わることだってできるかもしれない。

 僕はその星へと意識を送り、何千万年もの間、観察を続けた。常に変化する過酷な環境に適応していくかのように、生命たちは自らの姿形と機能を変化させていった。やがて生命は文明を持った。地球の人類と似たような歴史を歩み、二度にわたる世界大戦を終え、東西の冷戦の時代を超え、科学技術の進歩とともに大きな発展を遂げていっま。

 その星は地球と瓜二つだった。そこには僕の故郷もあった。両親もいたし、まだ幼い兄と姉の姿もあった。それから僕自身の姿も——。

 あれほど忌み嫌っていた家族にも関わらず、僕はかつての自分と同じ姿を持つ三歳の男の子の中に、自分の意識を宿すことに決めた。

 ふわふわとした感覚は、ずっしりとした重みへと変わり、失われていた五感が戻った。次の瞬間、僕は男の子の主観的な視点となって、家の中を歩いていた。

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