中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第11話 幾望の月(2)

 《左右対称の顔の女》は、初めて会った時と全く同じ服装をしていた。黒いリクルートスーツに襟付きの白いシャツ、それからベージュ色のストッキングを身に付けている。玄関に揃えられていた黒いパンプスも、あの日見たものと同じだった。左右対称なのは顔だけでなく、胸の配置も均等で、まるで生きたマネキンを見ているかのようだった。

「すみませんが、電源を切っておいていただけませんか?」

 左手に文庫本を開いたまま、顔を上げずにこちらを指差し、女は言った。

 スマートフォンのことを言っているのだと思い、言われた通りに電源を切り、ガラステーブルの上に置いた。女はそれを確認すると、本を閉じてスマートフォンの上に乗せ、再びその口を開いた。

「勝手にお部屋に上がってしまい、申し訳ございません。日並さんがあの喫茶店にいらっしゃったことは把握していたのですが、多少の危険を伴うため、直接あなたの部屋でお待ちすることにしたのです」

 申し訳なさそうに俯いて、女は言った。以前会った時より、ずっと人間らしい表情になっている気がした。

「いえ……いいんです。結果的にこうして再び会うことができましたので」と僕は言った。人とまともに話をするのは久しぶりだった。「多少の危険が伴うというのは、やはり何者かに狙われているのですか?」

「ええ、ですがそんなことより、日並さんがこうして私と会う気になっていただけたのが何よりです」、女は優しく微笑んで言った。「私は、あなたと再びお話をする機会が来るのを今か今かとお待ちしておりました。お仕事で辛い目に遭われている時も、樹海で命を絶とうとしている時も、私は心苦しい思いをしながら、ただ見守っていることしかできませんでした」

「住んでいる場所を知っているなら、どうしてそのときに来てくれなかったのですか?」と僕は訊いた。

「こちらから伺っても、日並さんにその気がなければ、どのみち相手にしていただけないでしょう。それに、言い方は悪いですが、あなたが限界まで追い込まれる必要性があったのです。自ら死を求めるほどの窮地に陥ることが、あなたがこの世界から抜け出すために私が課した必要不可欠な条件の一つでもあったのです」

 そう言うと、女はテーブルに置いてあるコーヒーを口元に運んだ。

「……ということは、やはり君は、僕を迎えに来てくれたのですか?」

「そうといえば、そうです。でも向こう側に行くのは、あなた一人です」

「君はこのまま、この世界に残るってこと?」

「どうでしょう……。残るかもしれませんし、残らないかもしれません。それはわたしにもわからないのです」と女は静かに言った。「この宇宙では、私は何一つ不自由なく生きることができます。何も食べなくても生きられますし、好きな時に好きな場所へ行くこともできます。例えばこうして、厳重なセキュリティで守られたマンションの一室に入ることも、今の私にはお手の物なのです。しかし、元の世界に戻ってしまったら、私には何一つ自由がありません」

 女は下唇を噛んで、そのまま黙り込んだ。

「君はやっぱり、この宇宙の外側から来た存在なの?」

 何も言わずに、女は頷いた。

 そのまま僕は質問を続けた。「そんな遠くからはるばる、どうして僕を助けにきてくれたのですか?」

 僕が訊くと、女はこちらを見て、意を決するかのように息を大きく吸った。

「この話を聞いたら、もう後には引けません。それでもいいですか?」

 僕は強く頷いた。全てを見通すような真っ直ぐな目で、女は僕の目をしばらく見つめた。それから女はゆっくり口を開いた。

「わかりました。ではお話しするとしましょう」、ため息のように大きく息を吐いてから、女は語り始めた。「私は、無数にある宇宙の中でも、最も高度な文明を築き上げた宇宙からやってきました。その宇宙の知的生命体は『全ての可能性』に最も近づき、〝神〟に近い存在でした。不老不死、不滅の精神、どのような環境でも生きることのできる優れた適応力、言葉を使わずともお互いの考えを交信できるテレパシー、遠く離れた場所に瞬時に移動できる能力——。あなたたち人類がはるか昔から欲してきたような夢の文明を、長い年月を経て、私たちは手にしたのです。食物連鎖の壁を超え、遺伝子という壁を超え、五感の縛りを超えたのです。

 私たちは文字通り、万能の存在になりました。そして私たちは、自分たちの宇宙のことを全宇宙の《原点》であるとして、〝オリジン〟と呼びました。

 しかし、そのような私たちでも、一つだけ不可能なことがありました。それは〝宇宙の果て〟を超え、他の宇宙へ行くことでした。私たちはどうしても、その壁だけは越えることができなかったのです」

 話を聞いていて、僕は黒ベストの男と同じようなことを話していたのを思い出した。

「でも君たちは、どうにかして〝宇宙の果て〟を越える方法を発見した。そういうことですね?」

「ええ。日並さんの言う通り、私たちはその方法を見つけ出しました。宇宙の果てを超え、別の宇宙へ瞬時に移動する術を身につけたのです。いいえ、それだけではありません。宇宙と宇宙の間を移動できるどころか、私たちは〝新たに宇宙を創り出す方法〟さえも発見してしまったのです」

 想像を遥かに越える話に、僕は言葉を失った。

「ですが、それらの万能とも言える能力を手に入れたことで、私たちは大切なものを失いました。……いえ、元々全てを失う覚悟だったのが、さらに酷い状況になったと言うべきでしょう。そのような力を得ることを望んでいたわけではなかったのですから。

 そして私たちは、永遠に続く地獄の中を過ごすことになりました。そこには希望はなく、絶望しかありませんでした。しかし、そのような地獄の日々の中、私はこのようにして日並さんと出会うことができた。私の長く無意味な人生において、これだけは不幸中の幸いだったと言えるでしょう」

 なぜこれほどまでに女が僕に対して強いこだわりを持つのか、不思議でならなかった。

「私の本当の目的は、あなたを絶望から救うことだけではなかったのです。いえ、もちろんあなたを救う目的もありました。かけがえのない日並さんをこの宇宙で見つけ出し、命を救うことは、私がこの宇宙に来た当初の目的だったことには違いありません。でも、絶望に陥っているのは、実は他ならぬ私自身だったのです。もし叶うのであれば、私も救われたいと願っていました。そして、あなたならきっと私を救うことができると確信したのです」

 何をもってそれを確信したのか、僕には疑問だった。女と再会して話を聞くにつれ、想像していたよりも随分話がややこしくなっていた。

「外側の宇宙では、君は一体どんな姿をしているの?」

「……それは、今の私にはわかりません。この宇宙では、私はまるで長い夢を見ているかのように過ごしています。夢の中のように、ここでは大抵のことは思い通りにできます。空間を瞬間的に移動することもできますし、空を飛ぶことだってできる。気に入らない人を瞬時に消すことだってできるでしょう。日並さんにも身に覚えがあると思いますが、夢の中では、その気になれば何でも可能なのです。それがたとえ夢の中だとわかっていたとしても——。今の私の状況をたとえるならば、まさにそのような感覚と言って良いでしょう」

「だとすると、君の本当の体は、今も眠ったままだということ?」

「どうでしょう。もはや眠っているのかどうかも、わたしにはもうわからないのです」

 女は、僕の背中にそっと手を添え、潤んだ瞳でこちらを見た。

「私の願いを聞いていただけますか?」

「僕にできることであれば」

「もし叶うのならば、私と一緒に寝ていただけませんでしょうか。……少しの間だけでも、そばにいて欲しいのです。この地獄の中で、つかの間の癒しを感じたいのです」

 彼女はそう言って、僕を寝室へと導いた。

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