砂丘の満月

インサイド・アウト 第16話 おとぎの国(4)

「あなたが辛い境遇で生まれ育った理由……それは、私の自責の念が歪んだ形となって、あなたに試練を課したからなのです」、《左右対称の顔の女》は、まるでわたしの心を読んでいるかのように言った。「私は、自分のせいで大切な人を死の淵に追い込みました。夫のためを考えて行動しているつもりが、実はただの自己満足で、かえってあの人を追い詰めてしまっていたのです。それでも夫は、最後まで私に不満を言いませんでした。だから私は、自分自身を責め続けるしかなかったのです」

 女が何を話そうとしているのか、わたしにはわからなかった。それでも、何か重要なことを言おうとしていることだけは伝わってきた。

「私は、あなたに謝らなくてはなりません。私の頭の中にはいつも花畑が広がっていて、他人の感情には鈍感で、自分の幸せだけを考えて生きてきました。だけど、その代償として失ったものは、そのぶん大きかった。私は、夫の苦悩に気づけなかったことをひどく後悔しました。そして、そのようになった原因を、恵まれすぎていた私の幼少期にあると考えました。

 子供の頃から、この世界は自分を中心に回っていると信じて疑いませんでした。何をしても許されると思い込んでいましたし、実際に大概のことは笑って済まされました。当時、私が周りから優遇されるのは、人間的に愛されているからだと思っていました。しかし実際には違ったのです。私の機嫌を取り、媚を売ってくる人たちは、私の外見の美しさだけを見ていたのです。ある者は下心で近づき、ある者は美醜の良し悪しによる色眼鏡によって私の虚像を見ていたにすぎなかったのです。

 だから私は、自分の宇宙を創造し、自分の分身とも言える存在を創り出したとき、その分身に残酷な試練を課しました。女らしさを奪い、ひどい両親のもとに誕生させ、無神経な人たちを周囲に置きました。他人の気持ちに敏感になれる人にするためにはやむを得ない……そう考えていました。

 でも結局のところ、私は単に許しを得たかっただけなのかもしれません。あなたにとっては、とんだ迷惑な話だったでしょう。私は、私の分身ともいえる存在が辛い毎日を過ごしているとわかっていて、それを正当化して大切なことから目を背けていました。同じ過ちを繰り返さないためには、傷つくことの苦しみを知ってもらう必要がある。愛しい人とは決して巡り会うことのできない寂しい運命を生き、わかりあえる人もいない真の孤独を知る必要がある。そう考え、あなたにそのような不幸を押し付けました。そのくせ私は、自分の愛する人と再会するために、その人が創り出した宇宙へと悠々と旅に出たのです。ひどい女でしょう……。どんなに罪の意識に苛まれようと、結局、私はどこまでも自己中心的な女の域を出なかったのです。

 だけどそんなとき、あなたもまたこちら側へとやってきた。どうやったのかは想像もつきませんが、そのとき私はやっとわかったのです。あなたは幸せにならなくてはならない。幸せになることに、後ろめたさを感じる必要性はないということを。

 なぜそのように感じたのか、自分でもよくわかりません。だけど、これだけは確実に言えます。あなたは私の代わりに十分に罰を受けました。だからあなたは、私以上に幸せになる権利がある。しかしそのためには、傷ついて穴だらけになったあなたの心を、多少過激な手段を使ってでも元に戻す必要がありました。

 それは簡単なことではありませんでした。そのためには、あなたが今までに経験したことがないほどの圧倒的な絶望感を与える必要があった。本当の地獄とは何なのか、生きるとは、死ぬとはどういうことなのか、頭だけでなく、あなた自身の中で腑に落ちる必要があったのです。だから私は、あなたに私自身になってもらったのです。

 何を言っているのか、あなたにはまだ理解できないでしょう。だけど大丈夫。すぐにわかるときが来ます。

 あなたは今までよく耐えました。肉体を失い、頭部だけになった姿になっても、そんな自分自身を受け入れようとしました。無理に抵抗するのではなく、仕方のないものだとして受け入れようと努めたのです。これは、そう簡単なことではありません。だから胸を張ってください。今のあなたであれば、これから先に待ち受けるどんな試練にも、立ち向かうことができるはずです。

 さて、時間も残りわずかになってしまいました。手遅れになる前に、そろそろ、あなたにかけたおまじないを解かなくてはなりませんね——」

 そう言って、女はわたしの両頬を冷たい手で包み込んだ。

 その瞬間、周囲が白い光で溢れかえった。

 わたしは思わず目をつぶった。瞳を閉じている間、まるで耳に栓がされているかのように、何の音も入ってこなかった。脳波計の電子音も、女の息遣いも、何も聴こえない。

 ほんの一瞬。だけど永遠のように長い時間。何もない無の空間に放り出されたような心地で、意識だけが宙に浮かんでいた。


 やがて聴覚が戻り、まぶたの向こう側の光が収まると、病院の独特な臭いが鼻をついた。胸のあたりが苦しく、溶けた鉛を血管に流し込まれたような肉体の重さを感じる。

 ゆっくりと、目を開いた。同時に、信じられない光景が目に飛び込んできた。そこには頭部だけの姿でベッドに横になる《左右対称の顔の女》の姿があった。

 女は焦点の合わない目で、ただ一点を見つめている。頬からは血の気が失せ、今にも生き絶えてしまいそうなほど青白い。首の付け根のあたりにホースのような太いチューブがつながれ、赤い液体がめまぐるしく循環している。ベッドの脇に吊り下げられた透明の袋から細い管が出ていて、無色透明の液体を左耳のあたりに運んでいた。女の頭部からは無数の電極が生え、側にある脳波計に電気信号を送っている。リアルタイムにモニターに映し出される三つの波は徐々に躍動を失い、三本の平行直線へと近づいていた。

 わたしはベッドの脇に立ち、女の姿を眺めていた。先ほどまで失われていたわたしの胴体は、何事もなかったかのように元どおりになっている。見慣れたスニーカーに、初夏にしては少し厚めのパーカー。《青木ヶ原樹海》に行くときに身に付けていたのと、まったく同じ服装をしていた。

「……どういうことなの?」

 誰に訊くでもなく、わたしはひとりごちた。首だけの変わり果てた姿になった女が、この問いに答えられるわけはない。

 もう一度、わたしは自分に問いかけた。

 どういうこと? これからわたしは、どうすればいいの?

 ——そのとき、わたしの意識に直接語りかけてくるものがいた。

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