砂丘の満月

インサイド・アウト 第15話 原点O(7)

 黒ずくめの男に銃口を当てられ、抵抗する間も無く、僕はもう一人の男に布のようなもので顔を覆われた。ただでさえ月の見えない暗い夜なのに、これで視界は完全に閉ざされてしまった。助手席に乗った老人は、抑揚の欠いた声で話し始めた。「これから、あなたをご主人様のもとへとお連れいたします。そこであなたは、第二の人生を生きるのです」

 僕の体は恐怖で身動きが取れなかった。老人は声色を変えることなく、そのまま話を続ける。

「なあに、心配ございません。お約束通り、ご家族の生活は保障されますし、ご自身も、これからは何一つ生活には困らないでしょう。これからは大好きな研究のことだけを考えて生きていけば良いのです。お金や人間関係のようなややこしい問題にいちいち頭を悩ます必要はなくなるのです。ただし、こちら側の条件に従っていただけない場合は、その時点でご家族への支援は打ち切られますし、あなたは戸籍上だけでなく、本当の意味で死を迎えることになりますがね」

 腹部に当てられた無機質な感触が、より一層、冷たく感じられた。

「家族を守ってもらえるのであれば、僕は何でもします」

 言葉を発するたびに鈍い痛みが歯茎に走った。鼻をつくような鉄の匂いが、口の中に充満する。

 老人は声を上げて嬉しそうに笑った。「そう仰られると思いました。あなたがご自身の歯を本当に抜いてきた時点で、わたくしは確信しましたよ。この人の決心は揺るぎないものだとね。この人は信用に値する人だと。さて、これで安心して、わたくしもあのお方に顔向けができるというものです」

 やはり先ほどの小袋に入っていた歯は、全てこの肉体の持ち主であるSのものだったのだ。ローブの男が口を開いたときに見えた赤黒い歪んだ歯茎が脳裏に浮かぶ。

 それから僕はヘッドホンを耳に装着され、注射のようなものを右腕に打たれた。意識が朦朧となり、睡眠と覚醒の間を何度も行き来した。夢の中にも関わらず、目覚めと眠りの感覚があるのは不思議なことだった。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか。ヘッドホンが外され、顔を覆っていた布が取り除かれると、太陽の位置はすでに正午を過ぎていた。僕は見知らぬ場所に連れてこられていた。広大な針葉樹林の森を背にして、中世ヨーロッパの貴族が住むような豪邸が、目の前に堂々と構えている。

 黒ずくめの男たちに連れられて、僕は屋敷の中へと入った。老人はいつの間にか姿を消していた。玄関に入って正面のところに、踊り場のある大きな階段があった。導かれるまま二階へと上がる。外装だけでなく内装も、西洋の屋敷のような荘厳な雰囲気を醸し出していた。通路には赤い絨毯が敷き詰められ、階段の踊り場には重々しい甲冑が飾られていた。二階の通路は肖像画の入った額縁が一定間隔に並んで掛けられている。

 通路を進んで突き当たりにある部屋に、僕は通された。埃っぽい四畳半ほどの部屋の中に、本棚と机、それから1人掛けのソファーが所狭しと置かれている。三日月形の小さな窓から差し込む光が、暗い書斎に仄かな輪郭を添えていた。

 なすすべもなく佇んでいると、ドアの向こうから、何者かの足音が聞こえてきた。その音は、この部屋に向かって近づいてきている。僕は息を殺してやりすごそうとしたが、その足音はドアの前でぴたりと止まった。それから、一呼吸空いてから、トン、トン、トンと三回、礼儀正しくノックされた。

「どうぞ」と僕は言った。声が震えるのが自分でもわかった。ドアが開き、中に入ってきたのは、身長190センチメートル超はあろうかと思われる長身の男性だった。髪はしっかりとセットされ、見るからに高級で手入れの行き届いたスーツを身に付けている。ネクタイは締めていない。人懐っこそうな純粋な瞳で、彼はさやわかに笑った。しかし、強すぎる香水の匂いで、僕は思わずむせ返りそうになった。必要以上に先の尖った革靴を素足のまま履いているのも癪に触った。至る所が僕の苦手とする要素で構成されているこの青年は、僕の知っている人物だった。 

 以前、駅のコンコースで仕事帰りの僕を待ち伏せしていた《黒ベストの男》——外見も話し方も、彼と同一人物だった。見た感じ、あの時と年齢はそれほど変わらない。だが、彼の話しぶりは、まるで僕とは初対面のようによそよそしかった。

 考えてみればそうだった。僕は今、夢の中でSとして生きているのだ。彼が僕のことに気づくはずはない。不思議なのは、Sの中に、なぜこの男の記憶があるのかということだ。Sの記憶の遺伝子を僕が受け継いだのだとすると、こうして年齢の大差ない黒ベストと会っているのは時系列的にありえないことだった。

「どうも、初めまして。『日本アウトベイティング』代表の等々力敦史と申します」、そう言って男は名刺入れから名刺を取り出した。名刺の上部には、砂時計をモチーフにしたと思われるシンボルマークが描かれていた。「この度は、私のお誘いに快く応じていただきありがとうございます。日並響さん、あなたのお噂は、随分前から伺っております。あなたが書いたどの論文も素晴らしかったのですが、特に、宇宙が無数に存在することを裏付けた、あの論文を読んだ時は、今までにないくらいの衝撃を受けました。あなたの論文によって、それまではサイエンス・フィクションくらいでしか真剣に取り上げられなかったマルチバース理論を、世界中の物理学者たちが真剣に議論するようになったのですから」

 等々力は興奮した様子で上着を脱ぎ、椅子の背もたれに掛けた。予想していた通り、上着の下には無駄に光沢の施された黒いベストを身に付けている。

 しかし彼が嫌味たらしい黒いベストを身に付けていることは、もはやどうでもよかった。先ほど彼の口から発せられた言葉が聞き間違いだったのか、僕は自分の耳を疑った。

 等々力は間違いなく、僕のことをフルネームで呼んでいたのだ。

 僕は今まで、ローブの男の過去を夢の中で追体験しているものだと思い込んでいた。いや、間違いなく途中まではそうだった。疑い始めたのは、Sの家族が住むメゾネットの表札を見た時からだ。表札に刻印されていた「日並」という苗字。全国的に考えてそれほど多いものではない。偶然とはいえ、その苗字が、Sの追体験としての夢の中で登場した時点で奇妙な話だったのだ。

だけど、ローブの男がSであり、そしてSが僕自身なのだとすると、それなら僕は一体、誰なのだろうか? もう、何が何だかわからなくなっていた。

 黒ベストは気にする様子もなく、話を続ける。 

「そして日並さん、あなたはこの人類史を大きく覆すことになるかもしれない大発見を成し遂げました。我々人類の手によって、新たに宇宙を創造する方法を——。ですが、その具体的な手法を記した論文はまだ世に出ておりません。その論文はどこにあるのか? そう。あなたの頭の中です。私は知っているのですよ。あなたがその論文を世に出さずに墓場まで持って行こうとしていることを。しかし、そう簡単に事は運ばないのですよ。その論文は、必要とする人の手元に置かなくてはいけない。そのために私はあなたに救いの手を差し伸べたのです。もうお分かりですね? あなたの論文……あなたの人生と引き換えに、ご家族の幸せを保証すると言っているのです」、そして等々力は両手を広げて言った。「さあ、あなたの全てを私に差し出してはいただけませんでしょうか?」

 そのとき僕は思い出した。《左右対称の顔の女》が僕のマンションを訪ねてきた日、彼女が話していたことを。

——私たちは〝新たに宇宙を創り出す方法〟さえも見つけてしまったのです。ですが、それらの万能とも言える能力を手に入れたことで、私たちは大切なものを失いました。そして私たちは、永遠に続く地獄の中で過ごすことになりました。そこには希望はなく、絶望しかありませんでした。

 どうしてかはわからないが、僕は今、〝新たに宇宙を創造する方法〟を発見した張本人になっている。だとすれば、もしかすると今この瞬間がターニングポイントになっているのではないか。ここで僕が黒ベストに秘密を漏らしさえしなければ、絶望の未来はやってこないのかもしれない。永遠に続く地獄のような日々に、麻衣さんが苦しむこともなくなるかもしれない。僕は今、過去の重大な瞬間にいるのだ。だから僕は、ここで過去を変えなければならない——。

 しかし、意に反して、言葉がひとりでにこぼれていく。

「わかりました。僕のすべてを等々力さんにお伝えします。だから、どうか家族のことは守ってほしい。この命に代えてでも、妻と子供を守りたいのです。時間さえいただければ、僕の頭にある内容を論文として書き起こすことは可能です。ですが、その方法を実践するには、今の我々の科学力では不可能でしょう。まだまだ、気が遠くなるほどの時間がかかると思います。おそらく私たちが生きている間には不可能ではないかと——」

 ここで黒ベストは話を遮った。

「だからあきらめろと? あなたも科学者なら、できない理由を探す前に考えられる可能性を考え抜くべきではないですか? 『気が遠くなるほど時間がかかる』ですって? 『生きている間は不可能』だと? まあ、そうでしょうね。普通の人間ならそう考えるのも仕方ないでしょう。しかしあなたは普通の人間ではない。この私ですら嫉妬するほどの、現代を代表する天才の一人なのです」、等々力は興奮した様子だった。「宇宙を創り出すくらいですから、人間の一生などという小さなスケールで達成できるだなんて、私だって考えていませんよ。時間が足りないのであれば増やせばいいのです。言っている意味はご理解いただけますよね? 我々の寿命の方を伸ばせば、時間の問題は簡単に解決するのではないかと、私はあなたに建設的な意見を申し上げているのですよ——」

「でも、医学は僕の専門分野ではありません」と僕は反論した。

 等々力は見下すような目で僕を見た。「天才に専門もクソもありませんよ。黙って私の言う通りにすればいいのです。あなたにはもう、選択する余地などないのですから」

 その言葉を聞き終えた瞬間、僕の夢は突然、速度を増した。時間が不連続に飛び始め、断片的な映像となって視界に飛び込んでは消えていった。まるで一つの映画の内容を数分間にまとめたダイジェストを見ているかのような気分だった。

 翌日から、僕はその書斎で研究に打ち込んだ。黒ベストに言われた通り、物理学の分野から一時的に離れ、医療の分野に足を踏み込んだ。専用の実験室と優秀な助手が充てがわれ、研究環境としては申し分なかった。日が昇る前に起きて、深夜2時過ぎまで研究に没頭した。そのような生活を何年、何十年と続けた。

 そしてある日、僕は人類の長年の夢である不老不死の技術を発見した。細胞のライフサイクルが永遠に続くように改良し、それでいて柔軟な適応力を備えることで、不老不死でありながらも進化し続けられるという、生命の背反事項さえも超越することを可能にした。

 それにより、人類から〝寿命〟という概念が消えつつあった。だが最先端科学の恩恵を享受できたのは一部の富裕層だけだった。普通の人間は、彼らを生かすための奴隷としての使い捨ての歯車にすぎなかった。

 世界を掌握したのは、特定の政府でも国連機関でもなく、資金と影響力を持つ個人と企業になっていた。中でも『アウトベイディング』は不老不死技術の利権によって膨大な利益を手にしていた。等々力は世界有数の資産家になった。これもすべてSの天才的な頭脳がもたらしたことだった。いうまでもなく、等々力は永遠の命を手に入れ、Sもまた彼に生涯を捧げるために永遠に生かされた。そして、〝新たな宇宙の創造〟に向けて、研究漬けの毎日を送っていた。

 夢はさらに速度を増した。映像はさらに不連続になり、断片的なイメージが僕の頭の中に投影される。

 地球の資源が尽き始めると、人々は宇宙へと進出していった。何百年、何千年とかけて宇宙を航行し、他の惑星から採掘した資源を地球へと持ち帰った。やがて地球環境に近い惑星を居住地とする者も現れた。このようなことを繰り返して、人類は気の遠くなるほどの時をかけて宇宙を開拓し、何千億もの銀河を超えていった。そしてついに人類は、〝観測可能な宇宙〟の限界地点にまで到達した。かつて地球上で開拓を繰り返した人類は、宇宙も同様に開拓し、ついにこれ以上進めない地点にまで来てしまったのだ。この世界から未開拓地が無くなってしまうことは、つまり、限りある資源を奪い合うための戦争が始まることを意味していた。そして、それは現実になった。

 人間は再び略奪を始め、全宇宙を巻き込む戦争へと発展した。しかしそうしている間にも、資源は枯渇し、人々は自らの首を絞めていく。

 中には、〝観測可能な宇宙〟の外側に目を向けた者たちもいた。宇宙の外側に行くことは不可能ではなかったが、容易なことではなかった。そのためには自らの肉体を捨て、精神だけを転送する必要があったからだ。残されるのは抜け殻になった肉体だけであり、切り離された精神がどうなったのかを知る術もなかった。

 もはや、この宇宙で人類が存続するために残された手段は、再び原始的な生活に戻るか、あるいは新たな宇宙を創造し、そちら側に移住することだった。だが人類は、原始的な生活に後戻りできる体ではなくなっていた。永遠の命を維持するためには、貴重な資源を常に肉体に取り込み続ける必要があった。文明を持ち始めた頃のように、肉や穀物を摂取するだけでは生命を維持することはできなくなっていた。人類に残された手段は、〝新たな宇宙を創造し、そこで新たにやり直すこと〟だった。

 気が遠くなるほどの年月を経て、ついにその方法を実用化する段階にまで至っていた。しかしそのためには大きな犠牲を払う必要があった。宇宙を創造するためには、宇宙と同様に11次元の構造を持つ物質を利用する必要があったのだ。

 その物質とは——人間の〝脳〟だった。脳細胞の樹状突起が鎖のように細胞同士をつなぐ様子は、多数の銀河の集団が鎖のような「ネットワーク」でつながる〝宇宙の大規模構造〟と酷似していたのである。

 Sは自身を犠牲にして、その実験を遂行した。肉体を捨て、自らの脳の中に新たな宇宙を創造したのだった。

 Sの実験は成功した。彼は肉体を失った代わりに、自分の中にもう一つの宇宙を作り上げた。脳の中に広大な宇宙空間を高次元圧縮し、彼自身の中に収めたのだ。

 彼は宇宙の創造神になった。

 ここで僕は、すべてを理解した。

 僕が今まで生きていた宇宙は、僕自身が作り出した宇宙そのものだったのだ。遥かに文明が進んだ世界で、かつての宇宙を思い描いて創ったもう一つの世界。そしておそらくその世界の中で、僕はSの望み通りの人生をやり直しているのだ。大切な妻と子供と離れ離れになり、自身の研究によって宇宙の命運を大きく左右させてしまった過去を、自らの手でやり直すために。

 僕は、初めて《左右対称の顔の女》と会った時に彼女が言っていたことを思い出した。

——実はこれまでの人生は、すべてあなた自身が『選択した』ことだとしたらどうしますか? あなたが恵まれない境遇と考えている、生まれた環境、親、国、時代——そのどれもが、言葉通りあなた自身で『選択した』ものだとしたら——

 Sは、彼自身の天才的な頭脳を恨んでいた。あの頭さえなければ、もっと人間らしく生きられると考えていた。世間をうまく渡り歩き、ごく普通の一般的な幸せというものを手に入れられると思っていた。

 だが実際にはそうではなかった。僕は頭は良くないが、世渡りも決してうまいとは言えない。親友と呼べる友達もできなかったし、恋人だっていない。つまりは「頭が良すぎるから」というのは、自分にとって都合の良い単なる言い訳に過ぎなかったのだ。

 《左右対称の顔の女》はきっとこのことを言いたかったのだろう。僕の生まれた宇宙は、他ならぬ僕自身が創り出したものであることを彼女は伝えたかったのだ。そして、その宇宙の中で、僕がどのような結末を迎えるのかも予想がついていたに違いない。些細なことで自身を追い詰めて、死を選択することを彼女は知っていたのだ。

 しかし、なぜ彼女はこのことを知っていたのだろう?

 自分が創り出した宇宙を神のように俯瞰しながら、僕の意識は徐々に遠のいていった。そろそろ目覚めのときが近づいているのかもしれない。目まぐるしく流れ去った時の流れに終止符を打つべく、僕は心を無にした。果てしなく深い深海の底から、意識が一気に引き上げられていく——。


 目が覚めると、森の中にいた。ローブの男と会った、あの深い森だ。すでに夜が明け、太陽は高く昇っている。深い眠りから覚めたにも関わらず、意識ははっきりしていた。

 周囲を見渡したが、ローブの男の姿はもうどこにも見当たらなかった。焚き火の跡だけが、彼と会ったことが夢ではないことを物語っている。

 《左右対称の顔の女》は言っていた。

——私たちは文字通り、万能の存在になりました。そして私たちは、自分たちの宇宙のことを全宇宙の原点であるとして、〝オリジン(Origin)〟と呼びました。すべてのはじまりである《原点O》と——。

 僕は、自らが創り出した宇宙から抜け出し、すべてのはじまりになった場所——原点Oにやってきたのだ。

 この先に何が待ち構えているのかはわからない。だけど、これだけは確信がある。幼い頃に見た《砂漠の無人駅》の夢は、この先に進むためのプロローグに過ぎなかったということだ。

 僕は立ち上がり、深緑の森の中に入った。そよ風が木の葉を揺らし、甘い緑の匂いを運んでくる。差し込む木漏れ日が苔に鮮やかな明暗を付け、刻一刻と森の表情を変化させた。幻想的で、生と死の両方を感じさせる神秘的な森は、かつて訪れた《青木ヶ原樹海》そのものだった。


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