砂丘の満月

インサイド・アウト 第18話 灰色の町(2)

 夢で見た灰色の町は、よく見てみるとつい先ほど訪れたばかりの場所だった。こちら側の宇宙に転送されてSのマンションで目覚めたわたしが、電車の走行音に導かれてやってきた町。そこでたまたま入った喫茶店で意識を失い、囚われていた病院を抜け出して、現在に至る。

 町にはオフィスビルと商業ビルが高くそびえ立っていた。アスファルトの地面に同化するかのように、灰色のスーツの群れが駅に向かっていくつもの流れを作っている。太陽はすっかり雲に隠れ、町は彩りを失っていた。通りを渡った先にある河は深く黒ずんでいて、立体的に交差する三本の列車が、水面に人工的な彩りを添えては、消えていった。

 あの夢の中、晴れとも曇りともいえない中途半端な天気の下で、わたしはアスファルトの上をひたすら走っていた。人っ子ひとりいない無機質な空間の中で、わたしはいつも何者かに追いかけられるのだった。

 もしかして——、とわたしは思う。

 この町に来ることも、頭部だけの姿になることも、以前から決まっていたことなのかもしれない。青木ヶ原樹海の写真をSNSで偶然見かけたときから……、いや、もしかするとあの夢を最初に見たときからすでに決まっていたことなのかもしれない。

 わたしは再び、こちら側の宇宙に招かれた理由と、《左右対称の顔の女》と出会った意味について考えてみた。

 左右対称の顔の女は、こちら側の宇宙の創造主であるSのことを助けて欲しいと言っていた。彼女の話がどこまで本当なのかはわからない。でも、この一連の不可解な出来事に納得のいく説明をつけるためには、彼女のことを信じるほかなかった。

 それに、わたしはSを助けたいと心から願っていた。青木ヶ原樹海で自殺を図ろうとするSを偶然見つけ出したそのときから、あの痩けた頬と頼りない背中が、ずっと頭に焼き付いて離れないのだ。

 わたしはSを守りたい。力になりたい。そのためにはSを見つけ出す必要がある。でも……。

 わたしは彼のことをあまりよく知らない。知っていることといえば、彼が仕事で追い詰められていたこと、それから夢に関する深い洞察を持っているということくらいだった。SNSに投稿された遺書のような雑記を読み、樹海からの帰り道に軽く雑談を交わした程度の仲である。少しだけ電話で話したりもした。でも、仕事で悩んでいたのは知っていても、彼がどんな仕事をしていたのかは知らない。彼の身に具体的にどのようなことが起きたのかも知らない。年齢を聞いたり、生まれ故郷についての話をしたことも。いや——。

 それ以前に、彼の本当の名前を知らなかった。わたしの中で彼のことを指し示す言葉は、「S」というひとつのアルファベット記号でしかない。

 深く、ため息をついた。考えても考えても、時間ばかりが無情に過ぎていく。そうしている間に、遠くの空がオレンジから紫へと変わり、あらゆるものからその影を奪っていった。街灯の明かりが地面を照らし始め、自動車のブレーキランプが、町に新たな彩りを添えていく。対向車線で信号待ちのミニバンのヘッドライトは、目覚めたばかりのわたしの網膜には、少々刺激が強かった。

 もう一度あのマンションに戻ろう、とわたしは思った。そこに戻れば、Sを探すための手がかりを何か得られるかもしれないからだ。彼のことを「S」というひとつの汎用的な記号ではなく、個人を識別し得る情報として、正しく認識できるようになるかもしれない。

 ハンドルネームしか知らない人物の本名を明らかにするのは、何だか悪いような気がした。だがこの先に進むためには彼の名前を知る必要があった。背徳感にも似た複雑な想いを飲み込んで、わたしは、彼のマンションがある方に足を踏み出した。


 こうなることを、Sは前もって予想していたかのだろうか。エントランスに入るための六桁の暗証番号が記された紙が、マンションの部屋を出るときに持ち出したキーケースの中に収められていた。厳重であるはずのセキュリティを容易に突破して、わたしは彼の部屋がある四階のフロアに到着していた。エレベーターを降り、四〇四号室へと繋がる通路を進んでいた。

 外はすっかり暗くなっていた。四階の通路から住宅街を見下ろすと、民家の窓から温かい光が漏れ出ていた。食器の音や、子供のはしゃぐ声もかすかに聞こえてくる。自分が経験できなかった幸せな家庭の空気が、そこにはあった。ドラマや小説の中でしか触れたことのない家族の絆。フィクションでしかありえないと思っていた家族団欒の光景が、目の前に浮かんできそうだ。その心温まる雰囲気に、もしも今度どこかに引っ越すことがあるならば、このような都会の住宅街に住んでみるのもいいかもしれないとわたしは思った。

 このマンションのようにセキュリティ完備のきれいな物件を借りるのは無理だろう。でも、こうして住宅街を見下ろしてみると、中にはいかにも安そうな古いアパートもある。

 実家を出て、ボロアパートで一人暮らしを始める自分の姿を想像した。あまり衛生的ではなさそうだし、隣人の生活音も気になるだろう。でも、居心地の悪い実家に住み続けるくらいなら、そこから抜け出して、安アパートでのびのびと暮らすのも悪くないかもしれないと思った。胸が踊りだすような、好奇心に満ちた感覚を覚えたのは久しぶりだった。

 わたしは首を強く振った。叶わぬ妄想を振り払い、キーケースから鍵を取り出す。そして鍵穴に鍵を差し込んでノブを回した。扉を開いて電気を点け、廊下からリビングに入ると、見覚えのあるくたびれた革のソファーがこちらを向いてわたしのことを待っていた。

 ソファーの前にはガラステーブルがあり、Sのスマートフォンと一冊の文庫本が隣り合って置いてあった。本のブックカバーは外されていて、表紙には『始まりのない物語』というタイトルだけが記されていた。

 スマートフォンの画面に触れてみたが、反応はなかった。おそらく電源が入っていないのだろうと思い、電源ボタンを長押しすると、見慣れた企業のロゴをしばらく表示した後、神秘的な森の風景を待ち受けにした画面が表示された。

 その画像に、見覚えがあった。

 SNSで偶然目にした《青木ヶ原樹海》の写真とまったく一緒だった。無秩序でありながらも整然さを感じられる森の風景。コケで覆われた根が地面の至るところから突き出し、よそ者の侵入を阻んでいる様子。木々の隙間から差し込む光は、まるで神が救いの手を伸ばしているかのようだった。

 ふと、テレビ台の上にあるLED時計が目に入る。

 ——PM6:36 5/11(Mon)

 点灯する青色の発光ダイオードを眺めながら、わたしは何か釈然としない違和感を覚えた。これまでの記憶を振り返りながら、その違和感の正体を探っていく。

 このマンションで目覚めたのは、5月7日の朝だったはずだ。記憶が間違っていないのだとすると、喫茶店で意識を失って病院を出るまでの間に、すでに4日も経過しているということになる。病院で意識を取り戻すまでの間に、わたしは何日間も眠っていたのだ。

 そのとき、もうひとつ別の記憶が、突然、脳裏をよぎった。

 夜空を漂う満月のように、闇の中に浮かぶ時間の刻印。LED時計の点灯の様子は、青木ヶ原樹海から抜け出しているときにSの左手首から発せられていた灯りを彷彿とさせた。

 この部屋にあるはずのものが、この部屋に置いていないことに気がついた。部屋の鍵も、スマートフォンも置いたままなのに、それだけがないのは明らかにおかしかった。先ほど感じた違和感の正体は、おそらくそれなのだ。

 もしかしたらと思い、わたしはSが置いていったスマートフォンのホーム画面を開いて、その中に存在するはずのものを探した。一つ一つのアイコンを吟味しては、次のアイコンに焦点を移していく。

 それは、思いの外すぐに見つかった。

 スマートウォッチの位置情報をスマートフォン上で表示するアプリケーション——。これを使えば、Sが今どこにいるのかを探ることができるかもしれない。

 わたしはすかさず、そのアプリケーションを起動した。立ち上がるまでの時間が異様に長く感じられた。一瞬のことなのに、何分も経過しているかのような、もどかしい気分だった。わたしがSを見つけ出せるかどうかは、すべてこれに掛かっているのだ。

 焦る気持ちを嘲笑うかのように、LED時計は淡々と時を刻み、コロンを点滅させていた。

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