砂丘の満月

インサイド・アウト 第13話 満月の夜、穴の中(4)

 黒ベストの目的が〝宇宙の外側へ侵出すること〟だということに気がついても、不可解な点は、まだたくさんあった。

 そもそも、どうやって宇宙の外側に侵出しようとしているのか。なぜ躍起になって《左右対称の顔の女》を見つけ出そうとしているのか。黒ベストと、僕の自宅マンションに手紙を送りつけてきた主は、どのような関係にあるのか。そして——これが全ての事の発端であり、最大の謎なのであるが——なぜ《左右対象の顔の女》は、僕のもとへとやってきたのか。

 女は言っていた。

 私の本当の目的は、あなたを絶望から救うことだけではなかったのです。いえ、もちろんあなたを救う目的もありました。かけがえのない日並さんをこの宇宙で見つけ出し、命を救うことは、私がこの宇宙に来た当初の目的だったことには違いありません。でも、絶望に陥っているのは、実は他ならぬ私自身だったのです。もし叶うのであれば、私も救われたいと願っていました。そして、あなたならきっと私を救うことができると確信したのです。

 だが、その言葉が何を意味しているのか、僕は理解できていなかった。

 どうして彼女は、僕を絶望から救おうと考えたのか。彼女にとって、僕がかけがえのない存在であるという理由は何なのか。そして、この僕がなぜ、彼女を救うことができるのか。

 また、母の話によると、一ヶ月ほど前に夏希のところに見知らぬ女性が訪ねてきたのだという。詳しい話は聞いていないが、これまでの話の流れから推察するに、おそらくその女性というのは《左右対称の顔の女》と同一人物と考えて間違いないだろう。それに、『一ヶ月前』という時期的な点も、僕が初めて女に会ったタイミングと合致する。

 大きく息を吸い、一気に吐く。

 何かを掴むことができそうなのに、なかなか事の真相には辿り着かせてくれない。

 六畳ほどの狭い部屋の中を無意味に行ったり来たりしながら、思考に集中した。

 午後九時。

 部屋の中は、夜の静寂に包まれている。

 壁越しにある夏希の部屋からは、物音一つ聞こえてこない。もし昼間に玄関で会うことがなかったら、本当にこの家に住んでいるかどうかを疑っていただろう。そう思ってしまうほど、彼女は自身の存在感を完全に消し去っていた。

 そんな夏希に、《左右対称の顔の女》は何の用で訪ねて来たのだろうか。

 部屋の中をぐるぐる歩いては立ち止まり、再び歩き出すのを繰り返した。そうやって自分の考えを整理しようとするが、なかなか前に進まない。

 ただ時間ばかりが過ぎていく。

 やがて僕は考えるのをやめ、寝る準備をすることにした。風呂に入り、温かいお湯で疲労と共に無力感を洗い流す。歯を磨き終えて、再び自分の部屋に戻ってくる頃には、幾分かすっきりとした気持ちになっていた。

 今回もまた、女の本当の目的を推測することはできなかった。

 だけど、それでいい。きっと、まだその時ではないのだ。

 そう自分に言い聞かせて、電気を消し、僕は布団に横になった。

 たった二日間のうちに富士の樹海から東北の田舎町まで駆け巡ったことで、体は固くこわばっていたが、湯船に浸かってほぐしたことにより、僕の体は心地良い浮遊感に包まれていた。

 睡魔が訪れ、眠りに落ちるのには、そう長い時間はかからなかった。


 夢の中で、僕は再び《左右対称の顔の女》に会った。

 場所は自宅マンションの寝室。ベッドの上。

 二人きりで横になり、窓の外に浮かぶ十四日目の月を静かに眺めている。

「忘れられないのですか?」と唐突に、女は言った。

 月の方を見つめたまま、こちらを振り返る様子はない。顔の半分は月明かりで照らされ、残りの半分には、暗い影が重く落ちている。

 忘れられない? 彼女は一体、何の話をしているのだろう?

 突然始まった夢だったが、それまでの話の流れを、なぜか少しずつ思い出すことができた。やがて女が《例の穴》のことを話しているのだと気がついた。

「……そうだね。忘れられないといえば、その通りかもしれない。だって、この世から逃げ出すために掘った穴なのに、まさか残飯が捨てられているなんて、想像もしていなかったからね。でも……」

「でも?」

「もし仮に、穴がそのまま残っていたとしても、この世界から抜け出すことなんて出来るわけがないと僕は思うのだけれど」

「どうして無理だと決めつけるのですか?」

「だって、どう考えてもおかしいでしょう。そんな穴に入ったくらいで、この世界から抜け出すことができるだなんて。まさか、『不思議の国のアリス』じゃあるまいし……」

 僕は、昔読んだ小説の冒頭部分を思い出しながら言った。幼い少女アリスは、白うさぎを追いかけてうさぎ穴に落ち、不思議の国に迷い込んだのだった。しかし、その先のストーリーは、曖昧にしか思い出すことができなくなっていた。

 あの小説の結末は、結局、どうなったのだろうか? 『不思議の国』は、アリスの夢の中の話で、その夢から覚めて終わりだったのか。それとも——。

「これだけは断言できます。《穴》の先に待っているのは、少なくとも夢の世界などではありません。それどころか、より現実に近づくと言っても良いでしょう」

「この世界の外側に行けるということ?」

 僕が訊くと、女は静かにこちらを振り向いた。逆光で顔の全てが影になった。

「ここから先は、自分の目で確かめると良いでしょう」

「だけど、君も知っているように、その穴はもう塞がってしまったんだ。一体、どうやって……」

 そのとき、彼女の両手が、僕の背中に回り込んで来た。全身が、大きな温もりに包まれる。

 大丈夫、心配することはない。

 彼女の胸の鼓動が、そう僕に語りかけてきたように感じた。

 耳元で、温かい吐息と共に声が漏れる。

「あなたは、きっと、ここに来た目的を果たすことができます」

 と、女が言い終えた時だった。

 空に浮かぶ月に厚い雲がかかり、視界の全てが暗闇に覆われた。

 先ほどまで僕のことを抱いていた女の姿は、どこにも見当たらない。温もりも感じられない。

 そして、次の瞬間——。

 耳をつんざくような轟音が、僕の頭に響いた。

 それと同時に、意識がフェードアウトしていく。

 僕は気付いていた。音が鳴ったのは、夢の中のことではないということに。

 現実世界で起こった出来事が、束の間の眠りから、僕の意識を無理矢理引っ張り起こそうとしているのだ。


 ——静かな夜。冷えた空気。

 雷鳴のような音が、刃物の如く真夜中の静寂を切り裂いた。それによって生じた激しい空気の振動が、木造の家が大きく震わせる。黒板を爪で引っ掻いたときの不協和音を何十倍にも増幅したような大きく耳障りな音が、家中に響き渡っていた。

 その正体に、僕はすぐに気が付いた。玄関の引き戸が勢いよく開けられた音だった。建て付けの悪い玄関の戸車が、歪んだ金属のレールとひしめきあって、悲鳴をあげる音。

 昼間に玄関を開けたときにも同じ音を聞いていたはずだったが、昼と夜とでは、その音の印象は大きく異なっていた。

 こんな時間に誰なのだろう?

 まず初めに疑ったのは、強盗の侵入だった。しかし、強盗であれば正面からではなく、部屋の窓から直接侵入するだろう。特に一階建ての平屋であればなおさらである。したがって、この線はすぐに消えた。

 次に考えたのは、『アウトベイディング』の目的に気がついた僕を、何者かが始末しに来た可能性だった。だけど僕の頭の中でしか行われていない思考を第三者が知り、真夜中の田舎町まで瞬時にやってくるなど、到底考えられない。世界中を常に監視し続けている彼らであっても、思考まで読み取るのはいくらなんでも不可能だろう。

 となると、誰かが侵入してきたのではなく、誰かがこの家から出ていったと考える方が妥当かもしれない。

 母か、それとも姪の夏希か。

 家を出ていくとしたら、そのどちらかしかあり得ない。

 そのとき僕は、妙な胸騒ぎを覚えた。

 急いで布団から起き上がり、窓から差し込む仄かな月明かりを頼りに服を着た。それからそっと部屋の扉を開き、廊下に足を踏み出す。すでに母も眠っているのか、家の中に明かりはなかった。窓一つない廊下は漆黒の闇に包まれている。だが、真っ暗闇の廊下を壁伝いに玄関まで進んでいくのは、何年もこの家に住んでいた僕にとっては、それほど難しいことではなかった。

 開かれたままの玄関から差し込む月光が、まるで僕を呼び寄せるかのように、土間を明るく照らしている。

 靴を履き、外に出た。

 真夜中にも関わらず、外はかすかに青みがかった色を持ち、ところどころに明暗の淡いグラデーションを落としていた。昼間は空一面を覆っていた分厚い雲は、今となっては跡形もなく消えている。雲一つない紺青色の空には無数の星々が多様な輝きを見せ、天の川が遠くの山の尾根まで続いていた。

 その先にある山の稜線の向こう側から、こちらを覗き込むものがいた。

 それは月だった。まるで張りぼてのように、くっきりと輪郭を持ったオレンジ色の大きな月が、そこに浮かんでいた。夢で見たものより少しだけ大きい、十五日目の月——。

 長い間、この日を待ち焦がれていたような気がした。

 だけど、そう感じるのはなぜなのだろう?

 そう古くない記憶を探っていると、初めて《左右対称の顔の女》と会ったときに彼女が残した言葉が、ふと頭の中に思い浮かんだ。

 もしそのとき、日並さんの考えが変わっていたら、またお話ししましょう。今度は〝満月〟でも眺めながら——。

 満月の夜。

 話をしたいと言っていた当人は、今ここにはいない。

 それでも今この時、僕がここにいることは間違いではないように思えた。

 そう信じた時だった。

 それほど遠くない場所から、草をかき分けるような音が聞こえ始めたのは——。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?