インサイド・アウト 第15話 原点O(6)
ローブの男の話を聞き終えた後、しばらく僕は考えていた。
飛び抜けて頭が良いにも関わらず、その不器用さで周囲と馴染めず、収入にも影響し、幸せであるはずの結婚生活で自らの首を絞めてしまった哀れなS……。
誰かが悪いわけではなかった。世渡りが下手なSに非があるとは思えないし、彼の妻だって、別に悪気があって彼を追い詰めたわけではない。もしかすると、社会のシステムそのものが破綻していたのかもしれないし、たまたま彼らの運が悪かっただけなのかもしれない。
彼はやはり火事に巻き込まれて亡くなってしまったのだろうか? そして、残された妻と子供は、あれから幸せに暮らすことができたのだろうか?
男の話は、何とも救いようのない話だった。バッドエンドで終わる映画を見た後のような後味の悪さが、僕の胸に重くのしかかった。
「私からの話はこれでお終いだ」とローブの男は僕の心を見透かしたように言った。「さて、こうしている間に、君の体はそろそろ動くようになったんじゃないかな?」
手足を軽く動かしてみると、男の言った通り、目が覚めた直後に感じていたような痛みと痺れは、もうすっかり消え去っていた。その気になれば体を起こすこともできそうだった。だが、先ほどまでの痛みの反動か、身体中が不思議な幸福感で包まれて強い眠気を伴っていた。心地良い倦怠感に身を任せているうちに、眠りに落ちてしまいそうだ。
「体は、何とか動かせそうです。でも何だか、とても眠たくて……」
意識を失いそうになるのをこらえながら、男の顔を見た。フードで影になっている口元を、焚き火の明かりがゆらゆらと照らしている。ローブの男は森の奥を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「そうだな。日が昇るまでまだしばらく時間はある。休めるときにしっかり休んでおいた方がいい」
そのとき僕は気がついた。男の口には、歯が一本も生えていないということに。歯がないこと自体はそれほど珍しいことではない。僕の目を引いたのは、激しい凹凸で醜く歪み、赤黒く変色した歯茎だった。
この場面を、僕はどこかで見たことがあった。これまでの生涯の中で、はっきりとそれを見た記憶があった。その記憶がいつのものなのかは思い出せなかったが、それが何かとてつもなく重大なことを示唆しているように思えた。
このサインを見逃してはならないと、僕の中の何かが強い警告を発している。しかしそれと同時に強烈な睡魔が襲ってきていた。目を閉じれば、一瞬のうちに意識が飛びそうだった。本能に逆らえずに、僕は重いまぶたを閉じた。それから眠りが訪れるのを静かに待った。焚き火で火照った肌を冷たい夜風に撫でられるのが、また心地良く感じた。
そういえば、長い話を始める前に、ローブの男はこのようなことを言っていた。
「私がここにいられるのは、そう長くはない。しかし君に伝えなければならないことは山ほどある。ここはどこなのか。君の身に何が起きたのか。私は誰なのか。そして、《彼女》がどこにいるのか——」
だが男は、この場所がどこなのか、僕の身に何が起きたのか、ローブの男が何者なのか、そして《左右対称の顔の女》がどこにいるかについて、まだ何も話していない。それにも関わらず、男は「これで話はお終いだ」と言ったのだ。
お終い? 終わる以前に始まってもいないんじゃないのか? 男は見ず知らずの夫婦についての話を長々と語っただけだ。僕が聞きたかった話は何一つ聞けていない。
——もう一度、話を聞かなければ——。
薄れゆく意識の中で精一杯考えていると、突然、どこからともなくローブの男の声が聞こえてきた。
「……ここから先は、君がこれから見る夢の中で語られるだろう。眠気に身を任せ、安心して眠るがよい。だが最後にこれだけは覚えておいてほしい。夢は、君たちにとって重大な意味を持っている。それは常に何か重大なことを示唆しているのだ。だから、単なる夢だからと軽んじて考えてはいけない。注意深く観察し、よく分析しなければならない」
君たち、というのが、人間全般のことを指すのか、それとも僕やSのことを指しているのかはわからなかった。何かを訊こうとしたが、次の瞬間には、訊こうとしていたのが何だったのかすら忘れていた。金縛りにあったときのように、体を動かすことができなくなっていた。もしかしたら僕はもう眠りに落ち、すでに夢の中にいるのかもしれない。しかし感覚だけは覚醒しているとき以上に研ぎ澄まされていた。
再びローブの男の声が聞こえてくる。
「——夢とは、記憶の伝達手段なのだ。私の経験は《記憶の欠片》として君の遺伝子に刷り込まれ、受け継がれている。そしてその記憶は君たちが成長していく過程で無意識のうちに脳へと復元され、具体的なビジョンを得るのである。夢は、単に君一人だけの体験をもとに無意識が作り出した創造行為ではないのだよ」
記憶の欠片を伝達するための手段? ローブの男から僕へと引き継がれた記憶?
男の言葉を頭の中で反芻しながら、僕は、四歳の頃に見た《砂漠の無人駅》の夢を思い出していた。
夢の中で、どこからともなく現れた見ず知らずの男……。男は、薄汚いうぐいす色のローブを身につけ、骸骨のような干からびた顔をしていた。
そう言えば、夢の中で僕は一度だけ、この男と目が合ったことがある。そのとき男は不気味な笑みを浮かべていた。きっと本人は優しく微笑んだつもりだったのだろう。しかし、開いた口の中から見える醜く歪んだ歯茎が、気味の悪さを余計に際立たせていた。男の口には、歯が一本も生えていなかった。
そのとき、僕は確信した。ローブの男の正体が誰なのか。そして彼が、Sとその妻の話を詳しく話すことができた理由も。
Sについての話を始める前に、男はこう言っていた。
「彼は昭和五十六年三月一〇日、この世界に誕生した。そして彼は三十七歳のときに自ら命を絶とうと心に決め、そこから二度目の人生を歩み始めた」と——。
しかし話の中で、Sが二度目の人生を歩み始めるような描写はなかった。つまり、あの事故の後も、Sはどこかで生き続けていたということだ。運良く生き延びたのではない。彼は最初からそうするつもりで炎の中に入っていったのだ。自分の死を偽装して保険金が妻に支払われるようにし、彼は何者でもない誰かとして、第二の人生を歩み始めた。
そして、その人物こそがローブの男だったのだ。彼こそが、僕が幼い頃に見た《砂漠の無人駅》の夢に登場した男であり、S本人だったのである。
謎が解けたと思った瞬間、今度はそれ以上に大きい問題が僕の頭を悩ませた。どうしてSは僕の夢の中に登場したのか? どうしてSは妻の話を僕に聞かせたのか? 彼が話を始める前、この話は僕と密接に関係があることだと言った。だから今すぐ彼に確かめなければならない。僕とSとの関係を。そしてこの世界が一体何なのか。《左右対称の顔の女》がどこにいるのか——。
しかし、男の声は、もう二度と聞こえてくることはなかった。
なすすべもなく、僕はそのまま深い眠りに落ちていった。
夢の中で、僕は燃え盛る炎と煙の中を彷徨っていた。大量に汗を流しながら、病室のように並んでいる部屋の中を一つ一つ順番に覗き込んだ。そしてときどき、大声で誰かの名を叫んでいる。やがて、ある部屋の中から、一人の老人がこちらに向かって手を振っているのが見えた。僕は叫ぶのをやめ、その部屋の中へと入った。
老人はベッドの上に寝たまま、こちらを見て言った。「例のものは用意できましたか?」
僕は何も言わずに小さくうなずいた。それから、スーツの内ポケットから小袋を取り出し、老人に手渡した。老人は袋から中身をひとつずつ取り出して手のひらに乗せ、満足そうに頷いた。
袋に入っていたのは、人間の歯だった。それも一本や二本ではない。前歯から奥歯まで、様々な形状の二十数本の歯が詰め込まれていた。それが誰のものなのか疑問に思ったが、僕はそれを確かめる術を持っていなかった。一挙一動が自分の思い通りにできなかったからだ。
中身を一通り確かめ終わった老人は、不気味な笑みを浮かべて立ち上がった。そして老人は言った。「あとはこちらでうまくやっておきますので、あなたは裏口から脱出してください。それでは10分後に例のガード下で待ち合わせしましょう」
僕はうなずいて、部屋を出た。いまにも炎で崩れそうな通路を抜けて、裏口の重い扉を力一杯開くと、冷たい風が体を包み込んだ。外に出ると、先ほどまで僕がいた建物は大きな爆発音と共に屋根が崩れ去った。炎が舞い上がり、熱風を周囲に撒き散らした。
裏通りを走って駅のガード下に入り、柱の陰に身を隠した。車のヘッドライトが自分の姿を照らすたびに怯えるように震えた。そのとき僕は自分がスーツを着ていることに初めて気がついた。いつも会社に着ていた服装だった。でも、僕はどうしてこんな格好をしているのだろう?
10分ほど待っていると、先ほどの老人が軽い足取りでやってきた。それから、付いてくるように首で合図したので、僕は黙って老人に従った。駅のガード下を出て繁華街を抜けると、今度は静かな住宅街へと入っていった。新築の一軒家が立ち並ぶ通りを歩いていると、ときどき子供の楽しそうな声が聞こえてきた。静かな通りを歩く僕と老人のいる空間が、まるで現実から切り離されているかのような錯覚に陥った。僕がこれから行こうとしているところは、このような日常とはかけ離れた場所なのかもしれないと思った。
老人の後ろを付いていきながら、この夢が何を意味しているのか察し始めていた。これはまさにローブの男が話していたSの話、つまり彼自身の話そのものだった。聞いていた話とは全く異なっていたが、僕は自分の夢の中で彼と同化しているということを悟っていた。やはり彼はあの火災で自分の死を偽装したのだ。そしてこれから第二の人生を歩もうとしている。
「着きましたよ」
そう言って老人が立ち止まったのは、メゾネットタイプの借家の前だった。玄関に掲げられている表札には『日並』と書かれている。
その意味を僕が考えるよりも早く、老人は再び口を開いた。
「最後に、あなたのご家族の姿を目に焼き付けておいてください。これからあなたの新たな人生が始まります。そのためには今のあなたは消えなければならない。あなたがあなたでいるうちに、しっかり思い出に残しておくのです」
僕は裏庭へと回り、カーテンの隙間から家の中を見た。Sの妻と思われる女性と小学生の男の子、それから三歳くらいの女の子が三人でダイニングテーブルを囲んでいた。少しだけ開いている窓から中の会話の様子が聞こえてくる。
「パパは今日も遅いの?」、聞いているのは男の子だった。
「そうね。今日も遅いみたい」と優しそうな女性が答えた。「パパは私たちのために一生懸命働いてくれているの。だから感謝しなくちゃね」
「えー、さみしいなぁ。早く帰ってこないかなぁ」と男の子は言った。女の子の方はよくわかっていないのか、目の前の食事には目もくれずに、テーブルの上に人形を並べて遊んでいる。
その様子をガラス越しに眺めながら、僕はいつの間にか泣いていた。涙の理由はわからない。見ず知らずの家族の団欒を見て心が動かされるほど、僕は感傷的ではないはずだった。それが今は、家族の様子をしばらく眺めていたい気分になっていた。このまま時間が止まってくれたらいいのに。自分も中に入って一緒に食事が摂れたらいいのに。そう心から願った。
Sの妻は、この時点では何も知らない。何も知らずに夫の帰りを待ち続け、警察に捜索願を届けるのだ。そして一週間後、警察からの電話で夫が火災に巻き込まれて亡くなったと知らされる。何とも酷い話だ。
「では、そろそろ参りましょうか」
老人の言葉を合図に、後ろ髪を引かれながらもその場を後にした。もうしばらくその場に留まっていたかったが、S自身が下した決断を今さら覆すことはできないのだ。家に戻ってしまったらSの妻には保険金が支払われないし、生き残った老人からサポートされることもなくなってしまう。僕は三人の様子を頭に思い描いた。あれは本当に幸せな家族の図だった。僕が今まで味わったことのない理想の家庭像。フィクションの中でしかありえないと思っていた家族の温かさがそこにはあった。
空を見上げた。黒い大海原の中で、星たちが弱々しい光を放ちながら不安そうに漂っている。そこに月は出ていない。まるで二度とその姿を表すまいと心に決めているかのように。
今この瞬間に、Sは死んだのだ。死んだと言ってもあくまで戸籍上の話で、実際にはこうして生きていた。しかし、元の生活に戻れないことは即ち死を意味していた。彼は自分自身の遺体を捏造するために全ての歯を抜いた。先ほどから一言も発しないのは、彼の口の中にはまだ麻酔が残っていたからに違いなかった。何も話さないのではなく、話せないのだ。
裏庭から玄関の前に戻ると、街灯の当たっていない物陰に一台の黒塗りの車が停まっているのが見えた。車の前で黒ずくめの男が後部座席のドアを開けて誰かを待っている。老人は何も言わずに車に近づき、助手席のドアを開けて勝手に中へと入っていった。僕もまた、黒ずくめの男が開いているドアから後部座席に乗り込んだ。中には黒ずくめの男がもう一人、すでに座っていた。先ほど外に立っていた男も後部座席に乗ると、僕は二人に挟まれる形になった。そして、右側に座っている男が、僕の腹のあたりに硬く冷たいものを当てた。
それが何であるのか、僕はすぐに察した。
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