砂丘の満月

インサイド・アウト 第13話 満月の夜、穴の中(5)

 音が聞こえたのは、裏庭の方からだった。

 玄関から家の側面に出て裏庭を見ると、密生したクマザサの中を歩く薄灰色の人影があった。スポーツメーカーのロゴがプリントされているだけの、グレーの半袖Tシャツ。その姿に、僕は見覚えがあった。その人物は、昼間に玄関で会った時とまったく同じ格好をしていた。

 昼間の厳しい寒さとは打って変わって、暖かい夜風が僕の肌を優しく包み込んでいる。まるで、夢の中に現れた《左右対称の顔の女》が、今でも抱擁を続けてくれているかのように。

 やがて人影は、隙間なく生えているクマザサの奥へと消えていった。

 その正体が僕の思い描いている人物と等しいことを確かめるべく、朽ちた黄色いハイエースの脇を通り、腰ほどの高さのあるクマザサをかき分けて奥へと進んだ。刃のように尖った葉が、衣服の上から肌に突き立てる。その鈍い痛みを無視して、かつて自分が掘った穴の跡を通り越し、さらに奥へと進んでいった。

 突然、視界が開けたかと思うと、そこにあったのはぽっかりと口を開けた洞窟だった。縦穴とも横穴とも呼べる大人3人は並んで通れそうなほどの大きな入り口は、およそ45度の勾配で地下へと続いていた。

 外界から断絶された空洞の中を、夜空に浮かぶオレンジ色の満月が、最深部まで綺麗に照らしている。まるで、今日この時間に、僕がここにやって来ることが計算し尽くされていたかのように、数十メートル先にある洞窟の突き当たりまで、はっきりと見て確認することができた。このタイミングを少しでも逃すと、中はあっという間に暗闇で覆われてしまうだろう。

 得体の知れない穴に入るのは、正直、気が進まなかった。しかし、入るなら今しかないように感じた。早すぎても遅すぎてもダメだったのだ。昨日の夜でも、明日の朝でもなく、まさに今この時、中に入らなければ意味がないのだ。

 急がなければ——。

 意を決して、僕は洞窟の中に足を踏み入れた。


 砂利混じりのぬかるんだ地面が、歩行の自由を奪う。

 足元を見ながら進もうにも、後ろの満月によって生じた自分自身の影が邪魔だった。転ばないよう、ゆっくり慎重に歩みを進める。

 この世のようでもあり、この世でもないような、不思議な感覚になりながら洞窟の中を歩いていた。一本道にも関わらず、これ以上進むと二度と戻って来れなくなるような不可逆的な感覚。だが、そもそも自然の摂理からして、不可逆的でないものなんて存在しない。一度変化したものを完全に同じ状態として復元することなど、どうあがいても不可能なのだ。

 もしかすると、僕はすでに後戻りできなくなっているのかもしれない。仕事を無断欠勤し、連絡手段を絶ったのだ。そして故郷に戻り、今こうして訳のわからない穴の中にいる。ここから出たとしても、元の生活にすんなりと戻れるわけはない。

 そう考えると、今はこのまま進むしかなかった。どちらにしても、もう後戻りはできないのだ。たとえこの先に、さらなる絶望が待っていたとしても。

 入り口から十メートルほど進んだところで、洞窟の隅に佇む小柄な人影が見えた。グレーのシャツを着たその女性は、髪に土が付着するのを少しもためらう様子もなく、洞窟の壁に寄りかかってスマートフォンの画面を食い入るように見ている。そして、何やら一心不乱に画面をスワイプしていた。画面のバックライトに照らされた顔を見るまでもなく、それが姪の夏希であることに、僕は気がついていた。

 しかし、なぜ夏希がこんな時間にこんな場所にいるのか、僕には少しも想像ができなかった。母の話によると、彼女が穴を掘っていたのは日が昇っている間だけであり、午前中には作業を切り上げていたはずだ。

 訳を訊こうと呼吸を整え、近くに寄ったが、先に口を開いたのは夏希の方だった。

「やっぱり来てくれた」

 画面に視線を落としたまま、夏希は言った。

「やっぱり?」

「きっと、見つけてくれると思ってた」

「見つけるって、この穴を?」

 そう訊くと、夏希はこくりと頷いた。相変わらず、スマートフォンの画面を一生懸命スワイプしている。彼女は一体何を読んでいるのだろう? そう疑問に思ったが、今はそのことに触れるのはふさわしくないような気がした。

 僕は最初に訊こうと思っていたことを尋ねることにした。

「ここで何をしているの?」

「響おじさんを待ってたんだよ」

「でも、どうしてわざわざこんな場所で……」

 夏希は手を顎に当てて、少しだけ考える様子を見せて言った。「ここじゃないと待つ意味がないから」

 答えになっているようで、何の答えにもなっていなかった。

「おじさんをここに連れてきたかったんだよね?」と訊くと、夏希は再びこくりと頷いた。そのまま質問を続ける。「確かに僕は、かつて自分が掘った穴を確かめるために久しぶりに実家に戻ってきた。結局、その穴はすでに埋まってしまっていて、中に入ることは叶わなかったけれども……。そしてなぜか君が穴を掘っていて、ここに僕を招待した。もしかしたら、君は、一ヶ月前にやってきたという女性に何かを言われて、今までずっと穴を掘り続けていたの?」

 夏希はスマートフォンの画面から目を離し、僕の方に視線を移した。それから様子を見るように、僕の目をしばらく見つめてから、ゆっくり口を開いた。

「……そう。麻衣さんに言われて、私は穴を掘り続けた」

「その人は麻衣さんって言うんだね。どんな人だった?」

 僕の質問に、夏希は困ったように首を傾げる。質問の仕方がざっくりしすぎていたのかもしれない。

「……えっとね、例えば、黒いスーツを着ていたとか、美しい顔だったとか、日本人形みたいな髪型だったとか、そういう外見的な特徴を教えて欲しいんだけど」

「知ってるの?」

「うん。ちょっと心当たりがあってね」

 隠しても仕方ないと思い、正直に伝えることにした。

「ふうん……、そうなんだ」と夏希はつまらなそうに言った。「確かに、黒いスーツを着ていたし、顔は作り物のように美しかったな。いや、美しいというより、美しすぎるっていう感じ。完璧な美って、ああいうのを言うんだろうね。それと、艶やかな黒髪が眉毛の上でぴったりと切りそろえられていて、本当に日本人形だった。……でも、知り合いなのに名前を知らないっておかしくない?」

 《左右対称の顔の女》——あの人の名前は、麻衣って言うのか。

「いや、知り合いと呼べるほど、仲が良い訳じゃないんだよ」と僕は誤魔化した。「その人——麻衣さんとは、どんな話をしたの?」

「えっとね、そう遠くない未来に響おじさんが家に帰ってくるから、それまでに大きな穴を掘っておくようにって言ってた。知ってると思うけど、私、仕事辞めちゃって、一日中家に引きこもってたからさ、時間だけは有り余ってたんだ。暇つぶしにちょうどいいだろうって話だったし、これから私がやることには、とても大事な意味があるって言ってた」

 それまでの寡黙で人見知りな感じから一変し、夏希は見違えるように饒舌になっていた。まくしたてるように、そのまま話を続ける。

「むしろ色々訊きたいのは私の方なんだよ。おじさんと麻衣さんは、一体どういう関係なの? どうして穴が必要なの? 大事な意味って何なの? 私……もう頭がどうにかなりそう」

 そう言って夏希は、再びスマートフォンの画面に視線を落とした。

「麻衣さんは、他には何か言ってなかった?」と僕は訊いた。

 画面を見たまま、夏希はしばらく黙っていたが、やがて何かを思い出したかのように声を上げて話し始めた。

「あっ、そういえば、響おじさんの部屋に用があるって言ってた。とてもとても大切な用だから、どうしても部屋に通して欲しいって頭を下げてお願いされたんだよ」

「それで……どうなった?」

「麻衣さんを、おじさんの部屋に通したらさ、しばらく部屋の様子を眺めたあと、木彫りのオルゴール箱を手に持って何やらブツブツ話し始めたんだよ。最初は、独り言でも言ってるのかなーって思ってたんだけど、すごい長い間、それが続いてね。さすがに心配になって話しかけようとしたとき、突然、麻衣さんが倒れたんだ」

「倒れた?」

「うん。まぁ倒れたって言っても、すぐに意識は戻ったんだけどね。なんかね、力を使い果たしたとか何とか言ってた。これで私の役目は終わりだとか、何だかひとりで寂しそうに言ってたよ。おじさんのあのオルゴール箱は、一体……何なの?」

 それを知りたいのはむしろ僕の方だった。小学校の卒業記念に作った木彫りのオルゴール箱。それ以上でもそれ以下でもない。その箱を持って、《左右対称の顔の女》は何をしていたのだろうか?

 事態がうまく飲み込めなかった。しかし、僕以上に夏希の方が状況を理解できずに苦労しているのだろう。

 掛ける言葉が見つからず、あたりを見回した。五メートルほど先には、スコップが立て掛けられ、土砂を運ぶための手押し車が所狭しと置かれている。そこが洞窟の行き止まりだった。

 たった一ヶ月あまりで、夏希はこの穴を掘り上げたのだ。あの女に言われるがまま、僕のために、たった一人で——。

「待って!」

 突然、夏希の鋭い声が、洞窟内の止まった空気を切り裂いた。

 気がつくと、僕は洞窟の奥に向かって一歩踏み出していた。夏希はそれを止めようとしたのだ。

 怪訝に思って夏希の方を振り返ると、彼女はスマートフォンを持つ手を降ろし、僕の目を切なげに見つめていた。

「奥には行かない方がいいと思う」

と、彼女は心配そうに洞窟の奥を見る。

「どうして? そこで行き止まりのように見えるけど」

「わからない……わからないけど、何だか嫌な感じがするんだ」、そう言って夏希は激しく首を横に振る。「今朝、ここから先を掘り進めようと思ったんだけど、この先には何か得体の知れないものが待ってるような気がして、やめたんだ。だから何だか怖くなって、こんな穴、もう埋めてしまおうと思った。疲れるし、体は汚れるし、無意味だしね。だけどそんなことを考えていた矢先に、本当に響おじさんが帰ってきたから、私、びっくりしたんだ。私にも、こんな不思議な出来事が本当に起こるんだなって思った。意味のない人生だったけど、物語の登場人物の一人になれたみたいで、生まれて初めて自分の存在意義を感じることができたんだよ」

 潤んだ瞳で、夏希はこちらを見つめている。

「だってさ、物心ついた時からお父さんはいなかったし、お母さんはすぐに亡くなってしまった……。最初で最後のお母さんとのクリスマスの思い出は、病室の中だった。息を引き取る寸前のお母さんは、お見舞いに来た私の顔を見て、悲しそうに笑ったんだ。抗がん剤の副作用で苦しいにも関わらず、笑いかけてくれたんだよ。そのときおじさんは、少しでも痛みを軽くしようと、お母さんの背中をさすってくれていたよね? だから私は今でも感謝しているんだ。いや、感謝というより、信じている、といった方がいいのかもしれない」

「信じている?」

「うん。だって……私、知ってるんだ」、夏希は気まずそうにうつむいた。「私のお父さん、他に女を作ったんでしょ? ほとんど家に帰らなくなって、しまいにはお母さんと私を捨てて、別の女の人のところへ行ってしまった……。おばあちゃんはね、私のことを気遣ってたのか、そのことを全然教えてくれなかったけど、親戚のおばさんたちの話を聞いて何となく察したんだよ。母を亡くしたばかりの頃、大人たちは私の前でそういう話を平然としていた。子供だからわからないと思って油断していたんだろうけど、三、四歳の私でもそれくらいのことは十分に理解できた。大人って、ほんとバカだよね。子供は何もわかってないと思ってる。自分たちの方がずっと優れていると思い込んでいる。口を開けば陰口ばかり。平気で人を裏切ったりもする。基本的に他人を見下しているんだよね。大人なんてクソ食らえだよ。ま、そんな私も二十歳になって、もう大人の部類に入るんだけどね」

 夏希は笑いながら涙を流していた。

「でも、でもね……。おじさんは、最後まで私のお母さんのそばにいてくれた。夜も寝ずに看病してくれていた。だから、おじさんなら信じて良いかもしれないって思ってたし、今でもそう思ってるんだ。信じても良い大人がいてくれることは、私の中で大きな支えになった。だから私は、今まで生きて来れたんだ。おじさんは私の希望だったんだよ。うまく言えないんだけど、さっき感謝してるって言ったのは、そういうことなんだ」

 どう切り出すべきか悩んだ。なぜなら、僕は姉のことを最後まで看取ったわけではないし、熱心に看病したわけではないからだ。夏希の記憶の中で、僕はだいぶ美化されているようだった。

「だから、おじさんのために何かができるっていうのは、私にとって喜びだった。何のためかはわからないけど、この穴が必要だったのなら、私はこの一ヶ月間の苦労を無駄だとは思わない。でも、そのせいでおじさんを失ってしまいそうで、私、怖いんだ。おじさんがここから先に進んでしまったら、もう帰って来れないんじゃないかって思ってる。私はね、もう二度と、大切な人を失いたくないんだ」

 僕は、夏希との間に、長年にわたる確執のような隔たりがあるものだとずっと勘違いしていた。だが、僕たちの間にあったのはそのような負の感情ではなく、お互いに尊ぶ気持ちだった。それがわかっただけでも、実家に帰って来た甲斐があったというものだ。しかし僕は、ここに来たからには、もう一つの目的を果たさねばならない。

「確かに、この先に行ったら、そう簡単には戻って来れないかもしれない。あの女の人もそんなことを言ってた。だけど、絶対に戻って来れないと決まったわけじゃない。僕は絶対に戻ってくるさ」

「戻って来れないかもしれないのに、どうしてそこまでして行こうとするの?」

「正直なところを言うとね、僕がここに来た最初の目的は、この世から逃げ出すことだった。《穴》に入ればこの世界から脱出することができると、あの女の人が教えてくれたから、僕はここに来たんだ。だけどね、少しずつ気持ちが変わっていった。幼い頃からの夢だったんだよ、この世界の外側に行くことが。もし本当に存在するのだとしたら、世界の外側の姿を自分の目で確かめたい。その気持ちが蘇ったんだ。これが一つ目の理由。そしてもう一つの理由は、あの女の人——麻衣さんを救うため。僕に何ができるかはわからない。だけど、向こう側に行くことで、彼女を助けるためのヒントを見つけられるんじゃないかと思っている。向こう側に行こうとしている理由は、そんなものさ」

 夏希はうつむいたまま、何も言わなかった。

 もし無事に戻って来られたら東京で一緒に暮らさないか、と僕は言おうとした。彼女に与えられなかった家族の温かさと血の絆を、今からでも一緒に取り戻していきたいと思ったからだ。しかし、無事に戻って来れたとしても、仕事を無断欠勤したまましばらく失踪することになるのだから、生活や仕事面などの現実的な問題が大きなネックになることは目に見えている。一緒に暮らすのは、それらの問題が一通り解決してからだ。だから僕は、夏希に向かって力強く頷くことしかできなかった。彼女がその意味を感じ取ってくれたかどうかはわからない。

 僕は再び、洞窟の奥を見た。

 よく見ると、突き当たりの土の壁が、きらきらと光っていた。月光によって照らされた砂のつぶが光を反射しているのか、それとも——。

 その光の正体を確かめようと、さらに近づいていく。

 背後から照らす淡い月明かりが、突き当たりの壁に僕の影を落とした。すると、砂が光を反射していると思っていたものは、土の壁、それ自体発光しているのだとわかった。まるで洞窟の最深部が宇宙に繋がっているかのように、土壁の表面は無数の煌めきに覆われている。

 右の手のひらを、そっと光に触れた。

 湿っぽく、ひんやりと冷たい。

 一瞬で血液まで凍らせてしまうかのような冷たさ。蘇る記憶。最近、その感触を一度だけ感じたことがある。

 《青木ヶ原樹海》だ。

 死の淵に立ち、意識を失いかけたときに感じたのは、全身が凍るような寒さだった。もう二度とこちら側の世界に戻って来れないような、不可逆的な恐怖。

 それはまさに死の感覚だった。

 しかし僕は抵抗せずに、その感覚に身を委ねる。

 やがて、土壁の輝きが大きく僕の体を包み込んでいった。

 泥酔したときのように視界が歪み、意識が肉体から遠退いていく。分離した精神は、気体のように宙に漂い、自分の肉体を見下ろしていた。そしてしばらく自分の頭上を旋回したのち、吸引機で吸われるかのように、洞窟の奥へと一気に引き込まれていった。

 この様子を、僕はどこかで見た覚えがある。

 それは、《砂漠の無人駅》の夢の中で、父がコンクリートの穴に吸い込まれていったときの様子にそっくりだった。

 あの夢は、父に対してではなく、大人になった自分に対する暗示だったのかもしれない。だとすると、夢の中の父と同じように、やはりもう二度とこちら側に戻って来れないのだろうか。

 やがて、血液も凍るような暗い寒さに覆われた。闇に消えゆく視界の中、最期に確認できたのは、うつ伏せに倒れている自分の姿と、心配そうな顔で駆け寄る夏希の姿だった。

 その記憶を最後に、僕の意識は、壁の奥へと完全に吸い込まれた。

(ごめん。戻って来るのは、やっぱり難しいかもしれない……)

 僕を構成する全ての要素が無へと帰したのは、言葉にならない言葉を、消えゆく意識の中ですべて吐き出した時だった。


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