砂丘の満月

インサイド・アウト 第21話 inside-out(6)

 どれくらい時間が経ったのだろう?

 無であるはずの空間の中に、光がわずかに残っている。失われたはずの思考と感情も、ちゃんと機能しているようだ。

 ほどなくして、僕の頭にある無のイメージは、どこからともなく溢れてきたまばゆい光で満たされていった。これが無なのだろうか? 思っていたのと全然違う。むしろ希望の光だ。

〈まだ消えるのは早いよ〉

と誰かの声が言った。水の中で発しているようなくぐもった声が、後ろの方から聞こえてくる。

 目を閉じたまま、僕は考える。

 後ろには、エレベーターがある。その下の階層には黄金色の液体で満たされた水槽が壁一面に備え付けられ、ゼアーズたちは今もその中で宇宙の創造と破壊を繰り返している。誰かがその水槽の中から僕に呼びかけているのだ。

 その声に、僕は聞き覚えがある。さっきエレベーターで昇ってくる間に聞こえてきた声と一緒だ。二人の人間の声。男女の声。《ローブの男》と《左右対称の顔の女》の声。先ほど聞こえた声は気のせいなどではなかったのだ。でも、なぜこのふたりの声が再び聞こえてきたのだろう?

〈目を開けてください。大丈夫。あなたはまだ、ここにいます〉

 左右対称の顔の女の声が、耳元で聞こえてきた。先ほどよりも輪郭のくっきりとした声が直接的に耳に届いてくる。

〈お前はまだ生きねばならない。お前には、元の宇宙でやるべきことがあるのだ。大丈夫。この宇宙は、私たちがどうにかする〉

 ローブの男の声が頭の中に響き渡る。

 これは幻聴なのか? それにしては妙にリアルだな。夢の中というわけでもなさそうだ。何にせよ、今考えても仕方がないことなのかもしれない。

 僕はおそるおそる目を開いた。そこは真っ暗闇の無の空間でも、地獄でもなく、先ほどと同じ光景が目の前に広がっていた。等々力は僕の拘束から逃れようともがき、二匹のアリ人間は麻衣の手足を強く押さえ付けている。

「放して!」

 いつの間にか麻衣は拘束具を外していた。手術台から降りようとする麻衣の動きを封じるのでアリ人間たちは精一杯のようだった。だけど、時間の問題である。時間が経てば経つほど疲労が積み重なり、僕たちはやがて力尽きてしまうだろう。

 やはり、この体を犠牲にするしかないのか――。

 諦めて再び目をつぶろうとしたそのとき、目の前に深い霧のような闇が現れ、その中からふたつの人影が姿を現した。うぐいす色のローブを身に付けた男は目にも止まらぬ早さで等々力の体を押さえ付け、馬乗りになって動きを封じていた。そして、もうひとり、黒いリクルートスーツを身に付けた女は、二匹のアリ人間の前腕をそれぞれつかむと、次の瞬間、アリ人間もろとも姿を消した。消える瞬間、その女は僕の方を振り向いて微笑んだように見えた。ローブの男もまた、僕の目を見て何かを言うと、霧が晴れるかのように等々力とともに姿を消した。

 それはほんの二、三秒の出来事だった。


 静寂が訪れた。

 殺伐とした空気が流れていた塔の最上階には、僕と麻衣のふたりだけになっていた。等々力も、アリ人間たちの姿もない。突如現れたローブの男と左右対称の顔の女の姿も見る影がない。彼らはどこから来て、どこへ行ってしまったのだろうか。

 夢なんかではないんだろうな、と僕は思った。等々力によって潰された拳はひどく痛むし、出血は止まる気配がない。鼓動に合わせて、血管から温かい血がドクドクと溢れてくる。

 痛みをこらえて立ち上がり、手術台で仰向けになっている麻衣のもとへと駆け寄った。彼女の腕には、アリ人間によって取り押さえられていた痕が内出血となって青々と残っている。放心状態で天井を見ていたが、僕の姿を確認すると、安堵の息を吐いた。それから優しく微笑んで、その小さな口を開いた。

「よかった。無事だったのね」
「無事……ではなかったけどね」と言って、僕は潰れた右手を持ち上げる。
「大変! 今、何とかするから……」

 無理に起きようとする彼女を抑えて、僕は首を横に振る。「大丈夫。もうそんなに痛くないし、ほら、血だってほとんど止まってる」

 僕がそういうと、出血していた箇所の傷がぴたりとふさがった。

「だけど……」
「それよりも、麻衣さんは立てそう? ずいぶん手ひどくやられたみたいだけど」
「わたしは、大丈夫」

 彼女はゆっくりと体を起こした。「強く拘束されていただけで、特に怪我はないから。そんなことより、さっきわたしの名前を呼んだよね? 名前、言ってなかったのに、どうしてわかったの?」

 瞳を丸くして僕に尋ねる。

「さあ、僕にもよくわからないんだ」

 麻衣というのは、《左右対称の顔の女》の名前だ。夏希から聞いて、僕はたまたまそれを知っていた。だけど、《左右対称の顔の女》とはまったく異なる外見の彼女もまた同じ名前を持つことをどうしてわかったのか、不思議なことのようにも思えたが、当たり前のこととして僕は受け入れることができた。目の前にいる女性のことを、僕は最初から知っている。生まれるよりも遙か昔から彼女のことを知っている。そんな気がしてならなかった。

「それじゃ、あらためて自己紹介しましょうか」

と彼女が言ったとき、ミシッという鈍い音が下の方から聞こえた。建物が軋むような、嫌な音だ。この感じを、僕は今までに何度も経験したことがある。

「地震!」

 彼女が声を上げると同時に、フロア全体が大きく揺れた。彼女に手を差し出して手術台から降りるのを手伝うと、辺りを見回して、脱出できそうな場所を探した。

「逃げなきゃ!」

 慌ててエレベーターに乗ろうとする麻衣を、僕は急いで引き止める。

「待って」
「どうして?」
「エレベーターで降りている時間はないよ、たぶん」
「じゃあどうすればいいって言うのよ?」

 この部屋には扉がない。あるのは下層に続くエレベーターだけだ。でも――。

「この大きな揺れに、あのガラスの水槽が耐えられるとは思えないんだ」

 あれだけ大きな水槽が割れて中の液体が外部に漏れてしまったら、塔の最下層は液体で満たされてしまって、出口までたどり着くことはできない。

 揺れは先ほどよりも大きくなっている。

「それなら、空を飛ぶっていうのはどう?」

 空を飛ぶ、か。

「どうにかして壁を壊せないかな」麻衣は目の前の壁を拳で殴るしぐさをする。

「手は無理だけど、足を使えば何とかなるかも」
「なら、決まりね」

 話している間も、塔はさらに揺れを増している。壁はミシミシと悲鳴を上げ、下層からはガラスの水槽が割れて中身が漏れるような音が聞こえてきた。彼女は部屋中の空気をすべて取り込んでしまいそうなほど深く息を吸い込み、大きな声で叫ぶ。「いち、にの、さん!」

 同時に、僕と麻衣は壁に向かって突進した。壁は見るからに頑丈そうだが、壁の耐久度をさらに上回る頑丈な肉体と運動量を持つ自分の姿をイメージした。インパクトの瞬間に加速度がピークに達するように意識する。速度は増し、壁が目前に迫ってきていた。

 今だ!

 足の裏に全体重をかけて、僕は壁を蹴り飛ばした。ほぼ同じタイミングで、隣から麻衣の蹴りも加わる。

 ドンッッッ!

 二度の衝撃は一つの音にまとまり、部屋の中に響き渡った。

 壁は崩れ、外の冷たい空気が一気になだれ込んでくる。

 考える間もなく、僕は麻衣の右手を強く握りしめ、壁に空いた横穴から外に飛び降りた。

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