インサイド・アウト 第15話 原点O(1)
何かが燃える音が聞こえる。
それほど大きな音ではない。遠くも近くもない。それは母が枯れ木を集めて焚き火をしていたときの音にとてもよく似ていた。聞き慣れた音。その背後で、風が効果音のように木の葉を揺らしている。その風に乗って運ばれてくる新緑と土の匂い。田舎の懐かしい香り。——土? そうだ。土の中……。
僕の意識は少しずつ深海の底から引き上げられていく。やがて——。
目を開こうとした途端、まぶたに引き裂かれるような激痛が走った。目が開かない。まるで厚いロウで覆われているかのように、僕の目は固く閉ざされていた。今度は体を動かそうとしたが、金縛りにあっているかのように微動だにできない。そこで再び、思い切ってまぶたを開こうとした。開こうとすればするほど、痛みが増していく。やがて痛みに耐えられずに喉から声が漏れると、今度はその喉に焼けるような痛みが走った。まるでアルコールの原液をそのまま喉に流し込まれたかのような熱さだった。
このような悪夢を、僕は何度か見たことがあった。盲目の暗闇の中、声を出すことも身動き一つ取ることもできないが、心の中で叫び続ければそのうち目を覚ますのだった。そのときと同じように、心の中で助けを求め、叫んだ。
これは夢……悪い夢なんだ。いつも通りにやれば、きっと夢から覚めるだろう。お願いだから、悪夢だったら早く覚めてくれ。誰か……誰でもいいから、僕を叩き起こしてくれ……!
しかしいつまで経っても夢から覚める気配はなかった。
声にならない声で叫び続けながら、僕は少しずつ察し始めていた。これは決して悪夢なんかではないということを。
脈打つたびにこめかみが疼く。それに合わせて、最後に記憶している光景が頭の中で蘇った。
(確か、洞窟に入って、その最深部に手を触れたんだよな……)
僕は、大型連休が終わった初日に会社を無断欠勤し、久しぶりに実家に帰ってきたのだった。その夜、オレンジ色の満月に見守られながら、姪の夏希が掘ったという洞窟の中に入った。そして、その奥の土壁に触れた瞬間、意識を失ったのだ。僕の記憶はそこで綺麗に途切れている。
(僕はあれから、一体どうなったのだろうか?)
——そのとき、誰かの足音が聞こえた。
それは、ゆっくりと重い足取りでこちらに近づいてきた。たぶん夏希か母のどちらかだろう、と僕は思った。実家の裏庭に掘られた穴の中で意識を失ったのだ。そしてそのとき、すぐ近くに夏希がいた。でもそれは夏希でも母でもなかった。聞こえてきたのは、知らない男の声だった。
「やっと意識が戻ったみたいだね」とその男は言った。「新しい肉体に身を宿した後は、誰でもそんな感じになる。だから心配することはないよ。あと少しだけ辛抱すれば、動けるようになるはずさ」
落ち着いた低い声だった。その声を聞くと同時に、僕は洞窟の最深部に手を触れたときのことを思い出していた。指先を触れた瞬間の、湿っぽく冷たい感覚。服の袖からみぞれ雨のように冷気が入り込んで肌にまとわりつき、瞬時に熱を失っていく感覚。あれは《青木ヶ原樹海》で自殺未遂したときに感じた不可逆的な肉体の変化——つまり『死』へと向かっていく感覚にとてもよく似ていた。それから意識は肉体から分離し、雲のように宙に漂った。そのとき僕は、地面に倒れこむ自分自身の姿と、僕のもとに駆け寄る夏希の姿を見た。それも束の間、意識は洞窟の奥へと一気に引き込まれていった。
もし男の言葉が真実なのだとすると、洞窟の奥で僕は死に、新しい肉体を得て生まれ変わったということになる。だが果たしてそのようなことが本当に可能なのか、疑問が頭の中を渦巻く一方だった。
わけもわからず様々な憶測を巡らせているうちに、男の言う通り、徐々に体の感覚が戻っていくのを感じた。しかしそれと同時に、今度は全身に強い痛みが走った。空っぽの血管の中に溶けた鉄を注ぎ込まれたかのように、焼けつくような痛みが全身を駆け巡る。
永遠に続くかのような痛みに気を失いそうになりながらも、ただひたすら僕は耐え続けた——。
どれくらい時が経っただろうか。痛みのことしか考えられない状態がしばらく続いた。一時間以上経ったようでもあり、ほんの数分間の出来事だったかのようにも思えた。気がついたときには、体からはすでに痛みは消え去っていた。
恐る恐る目を開くと、見たこともない森の中だった。実家の裏にあるクマザサに覆われた針葉樹林の森とは異なり、比較的暖かい地方で育つような葉の広い高木に囲まれていた。そんな中、ひときわ高い一本の巨木がはるか上空まで聳え立ち、空の闇を貫いていた。その大木の真下の開けた場所で、僕は仰向けになっている。すぐそばに焚き火があり、薪をくべる男の姿があった。
男は薄汚いうぐいす色のローブを身に付けた老人で、骸骨のような顔をしていた。頬は痩け、肌は浅黒く、血色が悪かった。顔に深く刻まれた皺とは対照的に、目だけは獣のように鋭く輝いていた。年齢は判別できないが、八十を越しているのは確かだろう。
「ここはどこですか? それと、失礼ですが、あなたは誰なのですか……?」
僕は喉の痛みを堪えながら言った。自分のものとは思えない、酒焼けした船乗りのようにひどくカサついた声だった。
「無理しちゃいけない。新しい肉体に慣れるまでは、むやみに動かない方がいい」とローブの男は慌てて言った。
「さっきも仰ってましたが、その『新しい肉体』というのは何なんですか? 見たところ、よく見慣れた体のように思うのですが」
僕は自分の両方の手のひらを交互に見比べた。多少の違和感はあったが、手のひらの皺の具合を見る限り、この体は紛れもなく自分自身のものだった。身に付けている衣服や靴でさえも、洞窟の中で意識を失う前と同じものを身に付けていた。しかし唯一、左手首に装着していたスマートウォッチだけは、どこにも見当たらなかった。
彼はうなずいた。そして深くため息をついた。僕の問いに対して答えるつもりがあるのかどうかはよくわからなかった。「こちら側に来るのにずいぶん時間がかかったね」と彼は話題を変えるように言った。
ずいぶん時間がかかったとはどういう意味なのか、と僕は口を開きかけた。しかし、こちらから質問をしたところで、まともに答えは返ってこないだろう。男のペースに合わせて話を聞き出した方がいいと思い、僕は口をつぐんだ。
薪のはぜる音が森の中に響き渡る。動物や羽虫の気配はひとつもしない。見上げても深緑の樹葉が空を覆っているだけで、星の輝きもなければ、張りぼてのようなオレンジ色の満月も見えない。
「せっかくこちら側に来たのに、こんなことを言うのも何だけど」と謎の男は切り出した。「悪いことは言わないから、体が動くようになったらもとの世界に帰った方がいい。こちら側に来たところで、君の求めるものは何一つとして無いんだよ。天国や極楽なんてものはないし、世界の真理もここにはない。あるのは孤独、絶望、そして《無》——それだけだ。この世界こそ生き地獄なんだよ。……でも、こんな世界も、まもなく終焉を迎えようとしている。そしてこちら側の世界の終わりは、君たちの宇宙の最期をも意味しているんだ。どのみち終わりを迎えるのなら、せめて孤独とは無縁なもとの世界へと帰った方がマシなのではないかと、私は提案しているんだよ」
僕は男の話を理解するのにしばらく時間を要した。もとの世界に帰る? 一体どうやって……。それに、こちら側の世界が僕の宇宙の最期をも意味しているとはどういうことなのだろうか。この宇宙は、まもなく終焉を迎える?
周囲をよく観察すると、男の言っている意味が少しだけ理解できたような気がした。やはりここは、僕がもといた世界とは少し異なるようだった。よく知る大自然の森の中とは全然違う。全体的に負の空気が流れ、その淀んだ空気が滅亡の雰囲気を醸し出しているのだ。
森は絶望していた。枯れてもいないのに、葉が茶色く変色していた。それは僕の目の前に聳える巨木も例外ではなかった。その灰みがかった老緑色の樹葉によって空を覆い、この地に深い闇を落としているのだ。
「ここが、僕のもといた世界とは異なることは何となく理解できた気がします。だけど、そもそもここはどこなのですか。それに、もとの世界に戻るといっても、一体どうすれば戻れるのでしょうか——」
「もとの世界に戻るには、いますぐここで絶命すればいい」、僕の話を遮るように男は言った。それからローブの奥からナイフのようなものを取り出し、僕の傍に放り投げた。
「絶命?」
「そうだ。今すぐ死ねば、まだ間に合うだろう。迷っている暇はない。なんなら私が代わりに刺してやってもいいが、これでも人を殺すのは初めてでな、できれば自分の手は汚したくないんだよ」
男は射抜くような目で僕を睨みつけた。焚き火の揺れに合わせて、地面のナイフが鉛色にゆらめく。
彼の言う通り、僕はもとの世界に帰るべきなのかもしれない。ここにいても無力な僕にできることは何もないのかもしれない。だけど僕が今ここにいるのには、きっと何か理由があるはずだ。
《左右対称の顔の女》は言っていた。
——私は、これ以上生き続けるのが怖い。永遠の命を手に入れ、あらゆる不可能が可能になった末に、全てを失って自由すらも得られない毎日から、一日も早く解放されたいのです。……私は無に帰りたい。死ぬことこそが何よりも希望です。私は、そんな絶望に覆われた《原点》の宇宙を終わりにしたいのです。
彼女の言葉が何を意味するのかはわからない。だが、男が言うように世界が終焉を迎えるのであれば、彼女が望むような《死》が訪れ、彼女は永遠の苦しみから解放されるのかもしれないことは何となく想像がついた。
しかし、それは少し違うのではないかと僕は思った。彼女が求めているのは永遠の苦しみから解放されることであって、直接的に《死》を願っているのではないからだ。《死》は一つの手段に過ぎない。もっと手段はあるはずなのだ。他にも、きっと……。
「僕は、あの女の人……麻衣さんを助けに来たのです」と僕は男に向かって言った。
その瞬間、男の瞳の奥に揺らめくものを感じた。男は明らかに動揺していた。
「君は……麻衣に会ったのか?」
「ええ」
「彼女は何か言っていたか?」
「あの人……麻衣さんは、一日も早く解放されたいと言っていました。無に帰りたい。死にたいと……。彼女が何に苦しんでいるのか、僕にはわかりません。だけど、解放されることと死は同義ではないと考えるのです。そのことを教えてくれたのは彼女自身に対して、彼女が前に進めるように勇気を与えたいのです。こんなことを言うのは差し出がましいかもしれません。でも、これこそが僕の願いであり、僕が生まれた理由の一つのような気がしてならないのです」
ローブの男は黙って僕の目を見つめていた。先ほどまでの猛禽類のような鋭い目ではなく、冷たさの中に穏やかさを兼ね備えていた。
「全てを知った結果、『死』こそが答えかもしれないという結論に至るかもしれない。果たして君にその覚悟はあるのか?」と男は言った。僕はそのまま男の目を見つめた。「私がここにいられるのは、そう長くはない。しかし君に伝えなければならないことは山ほどある。ここはどこなのか。君の身に何が起きたのか。私は誰なのか。そして、《彼女》がどこにいるのか——」
「麻衣さんは、やっぱりこちら側にいるのですね」
男はうなずいた。
「時間はそう多くは残されていない。だから要点だけをかいつまんで伝えたいところなのだが、しかし一体どのように言えば端的に伝えられるのか、私は少々思いあぐねているんだ。時系列に、順番に話すくらいしか……」、男はそのまましばらく口をつぐんでいた。
「それでもいいので、お話を聞かせていただくわけにはいかないでしょうか」と僕は言ってみた。僕は本当に知りたかったのだ。この場所がどこなのか。洞窟の奥に手を触れた後、僕の身に何が起こったのか。この男は何者なのか。そして彼女はどこにいるのか。
男は焚き火の方を眺めたまま、しばらく何かを考えていた。
「長い話になるかもしれない」
「それでも構いません」と僕は言った。
「話を聞く前に、幾つか心に留めておいてほしいのだが」と彼は前置きした。「これから私は、『ある男』の一生についての話をする。この話はいたって単純だ。しかし同時にひどく複雑な話でもある。なぜなら、この話は君とは無関係のようでいて、実は密接に関係しているからだ。したがって、最初からそのつもりで話を聞いてほしい。自分の身の起こった出来事のように、一つ一つ具体的にイメージしながら聞いてほしいんだ。そして、疑問があっても話を決して遮らないこと。どうか最後まで黙って聞いてほしい。——以上が、これから私が話をするにあたり、君に心がけてほしいことだ」
そしてローブの男は話し始めた。
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