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インサイド・アウト 第23話 始まりのない物語(1)

「もうこの世に十分満足されたのではないですか?」

 二名掛けのテーブル席の向かい側に座ってきた女は、何の前置きもなく突然僕に話しかけてきた……ような気がした。

 また、気のせいか。

 店内には聞き慣れたジャズの旋律が流れているが、今日はいつも以上に混雑していて、細かく音を聞き分けることはできない。時々、周囲の客の話し声が空耳となって僕に語りかけてくる。結局、すべて気のせいなのであるが、聞き慣れた単語に似た言葉が聞こえてくると、脳が無条件に反応してしまうようだ。

 聞き間違いなのは、わかっている。

 それでも、あの女の人が突然僕のもとに訪ねてくるような気がしてならなかった。


 三日前、僕は地元の大病院で目を覚ました。実家の裏庭に掘られた洞穴の中で意識を失ってから三ヶ月ほど、ずっと眠り続けていたそうだ。その間、夏希がほとんど寝ずに看病してくれていたことを、病院の看護師さんから聞いて知った。

 目覚めてから、僕と夏希は一言も言葉を交わしていない。あの日の洞窟での会話が嘘だったかのように、夏希は僕と目を合わせようともしなくなった。あれは一種の病気のようなものなのだ、と僕は自分に言い聞かせた。僕にも同じような経験があるから、夏希の状態はよくわかっているつもりだ。

 僕が意識を失っている間、ひとりの女性が尋ねてきていたと看護師さんが言っていた。その人は夏希と一緒にやってきて、僕の手を握って眠っていたそうだ。看護師さんに「恋人ですか?」と訊かれたが、僕はどう答えてよいかわからなかった。否定するのもおかしいような気がしたし、肯定できるほどの根拠もない。得意の曖昧な笑顔を浮かべてその場を誤魔化すしかなかった。


 いつも通りの日常が戻ってきたように思えたが、僕はどこか違和感を覚えていた。

 原点Oからもとの宇宙に戻ってくる前、僕は願った。

 僕と麻衣の宇宙が原点Oの内から外へと移動し、それぞれが量子的重ね合わせにより統合してひとつになる姿を。

 僕たちの宇宙は、どちらも同じ原点Oをベースに創られた宇宙だ。だから、同じ銀河があり、同じ星がある。地球には同じ国があり、同じ人間がいる。異なるのは、ほんの一部の例外のみ。いま感じている違和感は、もしかするとその例外のせいかもしれないと、僕は自分に言い聞かせた。

 喫茶『ロジェ』は、平日の夜九時にも関わらず賑わっていた。休日のティータイムかのように混雑している。

 そのとき、追い打ちをかけるように入り口のベルが乾いた音を鳴らした。

 満席にも関わらず、その客は店の中に入ってきた。そして、一番奥の二名掛けのテーブル席に座る僕の前で、その人は立ち止まった。

 うつむいていた僕の視界に、ベージュ色のストッキングと黒いパンプスが映り込む。

「お久しぶりですね、日並さん」

 濁りのない透き通った声で、その女の人は言った。

 僕は思わず視線を上げる。

 女の人は、就職活動中の大学生を彷彿とさせる黒いスーツに、襟付きの白いシャツを身に付けていた。胸には、マネキンのような大きくも小さくもない無難な膨らみを均等に備えている。だが、その顔は左右対称ではなかったが、僕はその顔に見覚えがあった。

「麻衣さん?」

 彼女はこくりとうなずいた。それから椅子を引いて腰掛けると、ちょうど注文を聞きに来た店員にアイスティーを頼み、こちらを向いて優しく微笑んだ。

「わたしのことを覚えていてくれてたんですね」

 嬉しそうに声を弾ませて、麻衣は言った。《原点O》で会ったときの普段着と異なり、スーツを身に付けていると年齢相応の大人の雰囲気が放たれていた。

「君こそ、どうして僕がここにいるってわかったの?」

 彼女がどのような経緯でこの喫茶店に辿り着いたのかを聞いた。地方にあるオフィスが東京にもオフィスを構えていることはけっして珍しいことではないけれど、御茶ノ水にあるというのは、偶然にしてはあまりにも奇妙な一致だった。

 それから僕たちはお互いの身に起きたことを語り合った。別々の宇宙にいた僕たちは、ローブの男と左右対称の顔の女の導きによって次元の壁を越え、原点Oへと辿り着いた。そこに至るまではほんの一週間程度の出来事のはずだったが、僕に至っては、自分の頭の中で幾度となく宇宙の創造と破壊を繰り返してきたことで、時間の感覚が大きく狂っていた。当時の出来事がはるか遠い過去のように思えたし、実際に遠い過去の出来事だった。いまとなっては、仕事の悩みで自殺を企てるほどまで追い詰められていた当時の心境すらもほとんど覚えていなかった。あのときの自分は、もはや自分自身ではなかった。それに、当時のことを覚えておく必要性はもうなかった。

「あのとき亡くなったはずのあの女の人が、なぜ原点Oに現れたのか、その理由をずっと考えているんだけど」麻衣は神妙な顔つきで話し始めた。自らの手で点滴の針を抜いたことに、いまでも強い罪悪感を覚えているのだろう。

「あの女の人は、点滴の針を抜くように自分から指示したんだよね?」

「うん」と彼女はうなずく。

「たぶん、あの人は何か考えがあって君にそう指示したんだと思うよ」
「指示?」

 僕は確信を込めて語調を強める。「だって、よくよく考えてみると、おかしくないかな」

「……何が?」

「その気になればテレパシーで話したり、空間を一瞬で転移することが可能な彼女が病室の中に留まっていたことがだよ」

「だって、首だけの状態になっていたから」

「確かにそれもあるかもしれない。でも、僕は思うんだ。あの人が逃げられなかった理由は、頭部だけの状態になったからではなく、あの〝点滴〟に問題があったんじゃないかって」

「つまり、あの女の人は、死ぬためじゃなくて、生きるためにわたしに点滴を抜かせたってこと?」

「うん。そう考えれば、原点Oにあの人が姿を現すことができた理由も説明がつくと思うんだ。僕がやったのと同じように、原点Oで新たな肉体を生成し、一瞬のうちに精神を転送してきた。そして、二匹のアリ人間を連れてそのまま別の空間に転移したんだよ」

「そうなのかな」麻衣はいまいち腑に落ちていない様子だった。

「結局、僕たちは最後まで、あの二人の手のひらで踊らされていただけなのかもしれないね」

「でも、あの二人のおかげでわたしたちは助かった」
「うん」
「こちら側の世界も平和になった」
「本当にそうだといいんだけど」
「どういうこと?」麻衣は身を乗り出して僕に尋ねる。

「妙だと思わないか? 先ほどの仮説が本当だとすると、僕の宇宙にいた等々力がどうして左右対称の顔の女の力を封じ込めることができたんだろう? そんな点滴をどうやって入手したんだろう?」

 麻衣の表情が少しだけ曇る。眉間に皺が寄り、何やら考え込んでいる様子だ。

 僕ははじめて等々力と対面したときのことを思い出していた。

 ——その手紙に《ゼアーズ》のことは記されていましたか?

 等々力は確かにそう言っていた。

 あのときは何を言っているのかわからなかったが、いまならわかる。あの時点で、あいつはゼアーズの存在を知っていたのだ。

「僕たちは、とんでもない思い違いをしていたのかもしれない」

 ゼアーズという言葉を知っているのは、原点Oにいたことのある人間だけだ。あるいは、原点Oの人間と何らかの繋がりのある人物。つまり、二つの宇宙の等々力は、おそらくお互いに情報を交換していたに違いない。

 耳を澄ませると、喫茶店の客たちが等々力のことを賞賛する言葉をひたすら並べ立てているのが聞こえた。世界政府の設立者。神の生まれ変わり。新時代の牽引者。全人類に平等に食料や資源を分け与えるという理念をもとに、世界各国の枠を超えた素晴らしい最高指導者。

 客たちの表情は至って普通だ。洗脳されているような様子もない。皆、自然な表情で、自然と等々力を賞賛している。何の疑問も抱く様子もなく、嬉々とした顔で語り合っている。

 これ以上、ここにいるのは危険かもしれない。

 そう感じたときにはもう遅かった。

 突如、隣に座る若いカップルが姿を消した。その隣の客も、そのまた隣の客も、六名で大テーブルを陣取っていた団体の姿も消え、店内はすべて空席になっていた。僕たちの座る席を除いて。

 いつのまにか店のBGMは消えていた。店員の姿もない。閉店後のような不気味な静寂が、僕たちを包み込む。

 ガラス張りの店内から外の様子を見ようとしたが、この喫茶店ごと暗幕で覆われてしまったかのように、外は黒塗りの闇で満ちていた。

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