中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第11話 幾望の月(4)

 降りそそぐ穏やかな陽光と窓ガラス越しに伝わる冷気で、僕は気持ち良く目を覚ました。久しぶりの爽快な朝だった。ベッドの脇のLED時計には『AM5:30 5/7(Thu)』と表示されている。それは、ゴールデンウィークが終わり、仕事や学校に行かなければならない憂鬱な日が始まったことを意味していた。

 だけど、僕にはもう、関係のないことだった。

 横では、左右対称の顔の女が安らかに寝息を立てている。

 昨日、あれから僕たちはすぐに眠りに落ちたようだった。その証拠に、僕は衣服を身に付けたままだし、彼女に至っては、恥ずかしげもなく生々しい裸体を朝日にさらしている。

 音を立てないようにベッドから静かに抜け出し、彼女の肩までそっと毛布を掛けた。それから僕はキッチンへと向かった。

 一人分の目玉焼きと簡単なサラダを作り、ラップをかけて、リビングのガラステーブルの上に置いた。「よかったらオーブンで焼いてください」と書いた付箋と共に、ちょうど一枚だけ残っていた食パンの袋を一緒に置く。ついでにマグカップに紅茶のティーパックを入れ、お湯の入った保温ポットを横に添えた。

 それから、彼女が現金を必要としたときのために、財布から一万円札を三枚取り出し、キーケースの中に三つ折りにして差し込んだ。鍵はキーケースに装着されている。ここに置いておけば、もし僕の身に何かあったとしても、鍵が奪われて彼女の身が危険に晒されることはない。

 用意した食事の他に、ガラステーブルの上にはスマートフォンと昨日女が読んでいた文庫本が重ねて置いてあった。その横に、現金と鍵を忍ばせたキーケースを置き、僕は立ち上がった。

 スマートウォッチを身につけ、財布をポケットに入れた。それから玄関に向かった。鍵もスマートフォンも、部屋の中に置いたままだ。だけど、それでいい。もうここに戻ってくるつもりはないし、誰からも着信を受け付けるつもりはないのだから。

 玄関のドアを開き、一度中を振り返って、馴染みの1LDKの部屋を目に焼き付けてから、音を立てないようにそっと扉を閉めた。「カチリ」とオートロックのかかる音が、通路に響き渡る。

 マンションの階段を一階まで駆け下りた。それからエントランスを出て、朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。都会の空気が美味しいと感じたのは久しぶりのような気がした。そのまま僕は、人通りの少ない住宅街を駅に向かって歩き出した。

 一軒家の並ぶ住宅街を通ると、おいしそうな味噌汁の匂いが漂っていた。幼い頃に母が作ってくれた貧疎な朝食の記憶が蘇る。少量のご飯に、ワカメとネギが入っただけの味噌汁、それから塩を振っただけの卵焼き。それが僕の日常的な朝の食事だった。味噌汁のバリエーションも、おかずの種類もそれほど多くの組み合わせはなかった。何よりも残念だったのは、夕飯もそれと対して内容が変わらないことだった。一日に必要な摂取カロリーを満たしているかどうかも怪しかった。

 そのようなことを思い起こしながら、「今日、母はどのような食事を出してくれるのだろうか」と僕は大して広がらない妄想を広げ、駅までの暇を潰した。

 駅前の通りに着くと、日焼けした上腕をこれ見よがしに振って歩く人たちと、青白い顔で憂鬱そうに俯いて歩く人たちが、無機質な灰色のアスファルトの上にまばらなコントラストを落としていた。早朝とは思えないほどの強い光が、その人たちを分け隔てなく照りつける。この連休中に南国にでも行ったと思われるほどの小麦色に焼けた腕を見て、僕は部屋に残してきた女のことを考えた。そろそろ目が覚めて、トーストを焼いている頃だろうか? それとも眠りの森の美女のように、まだ静かに寝息を立てているのだろうか?

 そこで、今になってようやく「何も食べなくても生きていける」と言っていた女の言葉を思い出した。でも、作ってしまったものは仕方ない。それに、彼女ならきっと喜んでくれるだろう。

 駅の改札前に着いた。

 ポケットから財布を取り出し、念の為、中身を確認する。入っているのはいくつかのカード類と、故郷への片道分の切符代くらいだった。多少心許ないが、これで充分だ。この世界からの逃避行に、余計な持ち物はいらない。

 御茶ノ水駅でSUICAを使い、電車に乗った。それから東京駅で青森行きの東北新幹線に乗り換えた。大型連休明けで、さらに帰省ラッシュとは逆方向の指定席券を手に入れるのは、それほど大変なことではなかった。


 新幹線の窓側の席に座り、外の景色を眺め続けた。高い建物が減り、緑と土の色が増えていくに従って、実家に帰るのがだんだん不安になっていった。

 前に帰ってから、すでに五年以上は経過していた。たまに帰省しても、一泊で済ませることがほとんどだった。これといって長く滞在する理由が見つからないからだ。

 都会の生活に慣れた身としては、田舎の生活は不便極まりなかった。美味しい料理が待っているとは限らないし、居心地の良い部屋で過ごせるとも限らない。実際に実家の食事は地味で簡素だったし、あてがわれる部屋はいつもカビと埃の臭いに満ちていた。せめて仲の良い友人がいれば帰省する楽しみの一つにでもなり得るのだろうが、外を歩いてもかつての同級生と出会うことはないし、もし仮に偶然出会ったとしても、話に花を咲かせるほど仲の良かった人は地元にはいなかった。

 それに僕は、母親とも特別仲が良いわけではなかった。それどころか他人以上にぎこちない関係だった。母の方も、僕に対して特にこれといった感情を抱いているようには思えなかった。

 昔から母は僕に無関心だった。その態度に対抗するために、僕は心を閉ざすふりをした。だがやがて、それが当たり前になり、必要がない限りはお互いに口を開くこともなくなった。母に対して笑顔を見せることも、涙を流すこともなかった。思春期を終える頃には、すでに心は完全に閉ざされていた。家族に対して、僕は感情を持たないロボットになっていた。顔は表情を失い、言葉に感情はなく、心は常に死んでいた。

 姪の夏希と思うように話ができない原因はここにあった。実家にいる間は、僕は冷血動物のように振る舞うしかなくなっていた。それは、姪に対しても同じだった。話しかけられない限り、自分から話しかけることはない。そのように振る舞うのが一種の〝規則〟であり、それに反する行動をとることは、例え自分の心からの意志に依るものであっても不可能だった。まるで呪術でもかけられてしまったかのように、その行動規則は魂にしっかり刻み込まれていて、直すことができなくなっていた。

 そんな僕が、「大型連休明けの初日」という最も帰省とは程遠い日に突然実家に顔を見せたら、きっと皆、驚くに違いないだろう。歓迎されなかったとしても、少なくとも心配くらいはされるかもしれない。そう考えると、帰省することが少し楽しみでもあり、少し怖くも感じた。

 あれこれ思惑を巡らせているうちに、新幹線はすでに仙台を通過していた。会社の始業時間は、すでに過ぎている。

 今頃、自宅に置いてきたスマートフォンに、上司から着信が入っている頃だろう。だけどその電話には誰も出ない。もしかしたら、全く連絡が付かないことを怪訝に思い、会社の人間が自宅に訪れるかもしれない。そのまま管理会社に連絡が行き、鍵を開けられ、僕を見つける代わりに裸の女性と居合わせてしまうかもしれない。そのシーンを想像すると、どちらに対しても気の毒なことをしたと思うと同時に、滑稽でおかしく感じた。だが、どのみち僕には関係ない話なのだ。それに彼女なら、この程度のことは難なく対処できるだろう。

 とにかく、これで会社を無断欠勤してしまったことになる。もう、後戻りはできない。

 本来なら気が重くなるはずの状況だが、なぜか心は軽くなっていた。車内の空調の風が、すがすがしく感じる。

 頭の中を空っぽにして、外の景色を眺めた。

 車窓から流れる広大な田畑の上空には、東北地方固有の冴えない曇り空が広がっていた。薄墨色の厚い雲に覆われた空を突き刺すように、針葉樹林の山々がどこまでも続く。

 この景色はいつまで繰り返されるのだろうか——そう思ったとき、新幹線は突然、アスファルトの深い闇に包まれた。それはとてつもなく長いトンネルだった。


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