中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第8話 夢判断(1)

 シャツの上に厚めのパーカーを羽織り、両親に気付かれないように足音を潜めて玄関に向かった。それからスニーカーを履き、扉をそっと開く。

 外の空気は冷たく澄み渡り、若葉の生い茂る香りと共に鼻腔を刺激した。冬の名残をまだ少しだけ残しつつ、初夏の訪れを予兆しているかのようだった。

 自宅から歩いて三十分ほどの駅から列車を乗り継いで、東京行きの新幹線が通る大きな駅まで出た。自宅と青木ヶ原樹海をぎりぎり往復できる分のお金は持っていた。決して安い金額ではない。でも、それに今月の通院費としてとっておいたお金を加えると、まだ少しだけ余裕があった。

 駅のKIOSKで、退屈しのぎに読むための本を探した。種類はそれほど多くはないが、駅というだけあって鉄道系のミステリー小説がたくさん置かれていた。次に多いのは雑学系の新書だった。その中でも一際魅力的なタイトルを掲げた一冊の本を、わたしはその背表紙だけを見て衝動的に購入した。

 買ったのは、『夢分析』という名の本だった。これを手にした理由は、言うまでもなくSの言い残した「単なる夢だからと軽んじて考えてはいけない」という言葉が一時たりとも頭を離れなかったからに他ならない。わたしは、Sの言葉の真意を知りたくて仕方がなかった。

 長期連休の終わりというだけあって、新幹線は混雑していた。たまたまわたしが切符を買う直前になってキャンセルが発生したと、みどりの窓口の人が言っていた。通路側の席で、老夫婦と、新婚と思われる初々しい男女のペアに挟まれ、とんだ場違いな座席になってしまったと思ったが、久しぶりに乗る新幹線は新鮮で心地が良かった。

 ドアが閉まると同時に、わたしは先ほど入手した本を開いた。

 一見、軽そうなタイトルとは裏腹に、その内容は非常に難解だった。駅の小さな売店に置いておくような本ではないだろうと思ったが、すでに買ってしまった後ではどうすることもできない。

 まず、〝まえがき〟の時点で圧倒された。精神医学や心理学、それから神経生理学に及ぶ幅広い知識を駆使して、《夢》に対する著者の概論が展開されていた。一ページ目からすでに挫折しそうになった。だが、到着まではしばらく時間があるし、この本の内容を読み解くことでSの言葉の真意を汲み取るヒントを得られるかもしれないという気持ちがページをめくらせた。それに幸か不幸か、今のわたしには自由な時間が人一倍ある。

 導入部となる序章では、世界最古の文学と言われる『ギルガメッシュ叙事詩』やキリスト教の正典である『旧約聖書』でさえも、夢が《お告げ》として登場していることが述べられていた。また、古代ギリシャ人のアルテミドルスが記した『夢判断』という本によると、夢には「夢」「幻影」「空想」「幻想」「神託」の五種類があるという。でもこのような、「夢はお告げであり、神々や精霊たちからの通信手段である」という考え方が紀元前から存在していたということは、それほど驚くことではなかった。

 第一章では、《夢分析》に関する有名な二つの学派について説明されていた。

 ジークムント・フロイトの精神分析学は、《夢》とは抑圧された欲望が形を変えて現れるものだと説いた。無意識が意識に混入してくることで、抑圧されている願望を充足する効果が夢にあるというのだ。自己の奥深くにあるその衝動を《イド》、あるいは《エス》と呼んだ。睡眠中にイドは拘束を解かれ、覚醒しているときには決してできないような行為を夢で具現化し、欲を満たすというものだった。

 それに対して、カール・グスタフ・ユングの分析心理学では、フロイトの《夢》の解釈とは少し異なり、夢は無意識から意識に向けてのメッセージであると考えていた。ユング派の夢分析は、夢の意味を一つの解釈に収束させるのではなく、夢からもたらされる様々なイメージや意味を膨らませ、それが意識と無意識とのつながりを再構築し、深めていくというものだった。

 フロイトとユングについて名前くらいしか知らなかったわたしは、この時点ですでに頭が痛くなった。別に、双方の学派の違いについて詳しく知りたいわけではない。必要なら後で読み返せばいいと考え、ひとまず先に進むことにした。

 第二章、第三章では、他の学者による夢の研究について広く浅く触れていた。ニコラス・ヴァシドは睡眠が固有の権利をもった生命に必須の本能的プロセスであると考えた。メアリ・カルキンスは、多数の夢報告を分析し、個々の被験者について集中的な研究を行った。夢を見るのは、脳が活性化して情報が合成された結果に過ぎないと考えたアンリ・ボーニ。夢の運動要素に特別な興味を持ち、夢の幻覚は非視覚性の厳選から発現するのではないかと考えたJ・ムルリ・ヴォル。人とイヌの睡眠を比較したサンテ・デ・サンクティス。自分自身の夢の制御を達成し、夢の中で飛行するという個人的な目標をも達成したメアリ・アーノルド=フォースター。他にも多くの研究者の成果が紹介されていた。その全てを挙げていたらきりがないほどだった。

 ここまでは何とか理解しながら読み進めることができた。しかし、これはまだ本の前半部分でしかない。

 恐る恐る後半のページを開くと、比較的最近の海外の心理学者や脳科学者が発表した論文について難解な解説が述べられていた。その上で、著者自身の多彩な知識と研究成果に基づく論述がなされ、素人のわたしにはもはや微塵も理解できるような内容ではなかった。

 なので、後半部分は適当に読み飛ばした。しかし、最後の著者のあとがきを読み始めて、わたしは思わず息を飲んだ。探し求めていた答えが、そこにはあった。


〈現実世界で起きた出来事が夢の中に現れることがある。あるいは逆に、夢で見たことが現実生活で実際に起こることもあるだろう。そのとき我々は、《夢》は外界からの刺激を受けて脳が見せた映像であるというだけでなく、夢そのものに何らかの力があるのだということを理解する。

 スピリチュアルに傾倒している者は、それが予知夢だと信じ込んでしまうかもしれない。現実主義の人間は、それはあくまで過去の経験が形を変えて見せたものだと信じて疑わないだろう。だがそれが、予知夢でもなく、あなたが経験した事柄でもなく、あなたの遺伝子に刻み込まれた先祖の記憶が見せている映像だと考えることはできないだろうか?

 どのように考えるのかは自由である。それらはあくまで主観的な認識にすぎず、客観的に判断する術は我々には与えられていないのだから。

「夢は、先祖の記憶が見せた映像だと? そんなバカな」と皆さんは怪訝に思われるかもしれない。しかし実際に、トラウマ的記憶(心的外傷)が脳にインパクトを与え、生物学的に遺伝するという研究事例はすでに幾つも報告されているのだ。

 昨日見た神秘的で示唆的な夢が、先祖の記憶が見せた実体験だとしたら、我々は夢をどのように解釈すればいいのだろうか? 過去からの警告と考えるか、それとも自分の強烈な体験や願いが遺伝子の変化を引き起こし、世代を超えて受け継がれるかもしれないと考えて日々を生きるのか。

 その可能性は人類の希望を無限大に広げると、私は信じてやまない〉


 これを読んだ後、Sの言おうとしていたことが少しだけ理解できた気がした。夢というのが、先祖の記憶が見せている映像なのだとすると、確かに「夢は単なる夢ではない」 のかもしれない。夢は、自分一人の頭の中で閉じた世界ではないのだ。

 だとしたら、わたしが見た夢は何だったのだろうか。ビルの上から飛び降りる夢は、紛れもなく自分自身の実体験だ。しかしその後に樹海の奥深くで目を覚まして、光の中に吸い込まれていったのは自分の体験ではない。これは先祖の記憶なのか、あるいは単に青木ヶ原樹海の写真を見たことによる影響なのか。それとも、古代から言われてきたような《お告げ》や《神託》の類なのか。

 隣に座る老夫婦の隙間から、窓の外を眺めた。故郷の緑色の風景は、無機質なねずみ色へとすり替わっている。目まぐるしく流れる都会の景色が、確実に目的地に近づいていることをわたしに知らせ、高層ビルのガラスに反射する太陽が容赦なく目を刺した。

 夢が何であるにせよ、これだけは断言することができる。夢は、単なる夢だからと軽んじて考えてはいけない。なぜなら、わたしはすでにその夢によって動かされ、ここまで来てしまったのだから。

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