砂丘の満月

インサイド・アウト 第13話 満月の夜、穴の中(1)

 久しぶりに帰って来た故郷はあたたかく僕を迎え入れてくれるわけでもなく、待っていたのは鉛色の空と、五月にも関わらずコートを羽織りたくなるほどの厳しい寒さだった。雲は海を灰色に染め、水平線との境界が区別できないほど、地上に重くのしかかっている。

 会社を無断欠勤したことを清々しく感じていたのも束の間、時間が経過するにつれて、金銭面の問題と将来の不安が胸の中の比重を大きく占めるようになっていた。このまま職場に戻らないことは簡単だった。しかしその代償として、毎月の最低限の暮らしを維持するためには貯金を切り崩して生活しなければならないし、契約しているマンションの賃料から考えて、そう長くもたないことは試算するまでもなかった。

 八戸駅で新幹線を降りたあと、日に数本しか運行していない列車を待つために、駅に併設されたカフェで二時間ばかり暇を潰した。といっても特にやることがあるわけでもなく、唯一できることといえば、窓に面したカウンター席に座ってサンドイッチとコーヒーを交互に口に運びながら空模様を眺めるくらいのことだった。

 JR八戸線の下り列車が到着すると、僕は四人掛けのボックス席に一人で座った。他のボックス席にもまばらに人は座っているのだが、農作業着に長靴を履いた冴えない老婆ばかりで、皆どこか物寂しそうに車窓の外を眺めていた。彼女たちの心に陰を落とす物の正体を知ろうと、目を凝らして外を見てみたが、何も見つけることができなかった。そこにあるのは、どこまでも続く曇り空と、灰色の海だけだった。

 八戸を発ってから一時間ほどで、地元の駅に到着した。冷たい風が懐かしい潮の香りを運んでくる。その匂いで、ここが間違いなく自分の生まれ育った場所であるということを、僕は改めて認識した。

 ——PM1:38 5/7(Thu)

 田舎町には不釣り合いのスマートウォッチをかざして、現在の時刻を確認した。

 晴れる気配のない曇り空を意味もなく見上げながら、職場の様子を思い描く。

 今ごろ会社の人たちはどうしているのだろう。僕の不在など少しも気にせず、いつもと変わりなく仕事をしているのだろうか。それとも、執拗に電話を掛け続け、一向に電話に出ない僕の安否を気にしているだろうか。

 その光景を想像してせいせいした気分になる反面、いよいよ後戻りができなくなっていることに、僕は後悔に近いものを感じていた。時間が経てば経つほど雲は一層厚くなり、太陽の光はますます遮られていく。

 余計なことを考えるのをやめ、足元だけを見ながら勾配のある坂道を登り、二車線の国道をしばらく南に進んだ。それから渓谷に架かる大きな橋を渡って小学校の前を通り、小高い丘を登る。

 そこに、僕の実家はあった。

 見慣れたトタン屋根の平家が、まるで今この時まで時間が止まっていたかのように、古い記憶そのままの形を残していた。その背後では広大な針葉樹林が古い家屋に暗い影を落としている。

 その薄暗い裏庭の一角には、旧型の黄色いハイエースが、主人を待ち続ける老いた番犬のように佇んでいた。表面の塗装は潮風に浸食されて変色し、茶色い錆びと共に無残に剥がれ落ちている。空気の抜けたタイヤは地面に深く食い込み、沈んだ車体の隙間から覗くタンポポとヒメジョオンの花が、陰鬱な暗い裏庭に黄と白の色彩を添えていた。そして車の後ろには、まるでその先に人間が踏み入ることを阻むかのように、大人の腰ほどにまで生育したクマザサが密生している。

 実家に帰ろうと決意した理由は二つあった。一つは、亡くなった姉の娘、夏希と話をすること。それからもう一つは、僕が子供の頃、現実逃避のために掘った《穴》が今どうなっているのかをこの目で確かめるためである。

 その穴があるはずの場所が、密生したクマザサの向こう側にあった。

 女は言っていた。

「その穴がもし残っていたら、今度こそあなたの求める『どこか別の場所』に行けるでしょう」

 と——。

 意を決して、僕は群生したクマザサをかき分けて奥へと進んだ。刃のように大きく鋭い葉が、衣服の上から皮膚を突き刺そうとする。細い割に強靭な茎は、体を思い通りに前へ進ませてくれない。

 それでも何とか進み続け、以前掘った穴のあるあたりに辿り着いた。

 しかし、そこに穴はなかった。

 そんなはずはない。

 もっとよく確認しようとしゃがみ込んだそのとき——背後から突然、何者かの声が聞こえた。

「帰っでだのか」

 驚いて立ち上がり、後ろを振り帰ると、そこにいたのは前に会ったときよりも縮んだ母だった。心なしか、声も変わったような気がする。艶やかさを失い、老婆のようにしゃがれた声音は、ただでさえ聞き取りにくい東北弁をますます難解なものにしていた。

「ここにあった穴はどうなったの?」と僕は母に訊いた。

「あぁ……んががわらすのときに掘っだ穴が? あれはワレが残飯投げだんだ」

 どうやら母は、穴がいっぱいになるまで残飯を捨て続けたようだった。子供の頃には見る影もなかったクマザサがここまで密生するようになったのは、きっと残飯が微生物に分解されて土壌が豊かになったせいだろう。

 しかしまさかこの世から逃げ出すために掘った穴が「残飯捨て場」などという極めて日常的な用途で使われていたとは——。予想だにしない結末に、僕は失望するどころか笑いすら込み上げてきていた。

 母の言葉の意味を理解し、穴の結末を見届けた僕は、静かにため息をついた。それから大きく息を吸って、口を開いた。

「ただいま」

「おがえり」と母も濁った声で返した。それから首を傾げて言った。「急にどうした? 仕事やめだのが?」

 なかなか鋭い返しだった。しかし僕は、母に嘘をつくのには慣れていた。

「ゴールデンウィーク中、ずっと仕事でさ。やっと休みが取れたし、帰省ラッシュに重なる心配もないから、久しぶりに帰ろうと思ったんだ」

「だげども、すぐ帰るんだろ?」

「いや……今回は長居しようと思う」

「そうかそうか。まぁ、中さ入れ」

 母は少し嬉しそうに言うと、家の裏口から中へ入っていった。


 家の正面に回り、玄関の引き戸を開けると、金属同士が強く擦れ合うような高い不協和音が辺りに響いた。まるで黒板を爪で引っ掻いたときのような、寒気にも似た不快感が全身に走る。老朽化して回らなくなった戸車がレールの上を無理やりスライドする音は、まるで侵入者の存在を知らせる警報機のようだった。

 玄関に上がると、すぐ左の部屋から誰かがこちらを覗いているのに気がついた。目が合った瞬間、その姿はひょいと奥へと引っ込んだが、僕にはすぐにその正体が姪の夏希だとわかった。前に会ったときからだいぶ経っていたが、その顔に残された姉の面影を見逃すわけがない。すでに幼さはなく、垢抜けた大人の女性へと変貌を遂げていた。

 しかし、彼女の目には生気がなく、頭髪は浮浪者のように乱れ、ひどく汚れたグレーのTシャツを身に付けていた。僕にはかつて姉がいたから、女性の生態にはある程度詳しいと思っている。だから、二十歳の女性が平日の昼過ぎの時間帯にこのような格好をしているのは只事ではないと思った。そこには「怠惰」の一言では済まされない事情があるということを、彼女と目があったその一瞬に何となく汲み取っていた。

 夏希が変に構えないように、小さく「ただいま」と言い、居間に入った。それから姉の仏壇に線香をあげ、手を合わせてそっと目を閉じた。

 僕が黙祷を終えてテレビを点けると、母は重々しく口を開いた。

「育で方を間違えたんだべか」

 突然の母の言葉に、僕はどのように返してよいかわからなかった。何も言わずに、そのまま様子を探る。

「人ど話せなぐなったんだ。それで一日中部屋さ篭っでる」

 夏希のことだった。母は僕の反応を待たずに話を続けた。

「母親のこどをなるべく思い出させないようにしようと思っで、今まであまり話さながったんだけども、母親のことをもっと教えて欲しかったど言ってでな」

 母には昔からそのような傾向があった。臭いものには蓋をして、余計な情報を与えない。真実を伝えることを忌避する。相手に嫌なことを考えさせないように気遣っているようでいて、実は単に相手の反応を見るのが怖いだけなのである。

 姉が二十六歳にして癌を患い、助かる見込みが無いことを医者から告げられたときも、母はそのことを姉にだけは伝えなかった。確かに姉は情緒不安定な人だった。だから、もし自分の命が長くないことを知ったら取り乱していただろう。しかし、自分の死期を知らされぬまま病床に伏していることの方が、耐えられないことだと僕は思っていた。死ぬ前にやっておきたいことがあるかもしれないし、誰かに伝えたい言葉があるかもしれない。姉に病気のことを隠すことを決断した両親に対して、僕は未だに不信感に近いものを抱いている。

 そして、そのときと同じように姪と接したのだ。亡くなった母親のことを思い出して辛い想いをすることがないように、寂しく感じることがないように、姉に関する話をなるべく避けたのだ。しかし、当の本人は、母親のことをもっと知りたかったのだ。本人のことを想ってとった行動が裏目に出たということになる。

「ちゃんと話した方が良かったのかもしれないね」

 そう言いながら、胸が強く痛むのを感じた。僕も同類だったからだ。離婚して女手一つで娘を育てていた姉が亡くなった後、葬儀が終わると僕はすぐに東京に戻り、何事もなかったかのように大学生活を再開した。姉が遺した子供は、父と母がきっとなんとかするだろうと思っていたし、実際にそうなった。

 だから、夏希に対して酷いことをしたのはむしろ僕自身なのだ。姉の話をするわけでもなく、生活の面倒を見るわけでもなく、一緒に遊んだわけでもなく、相談相手になったわけでもない。

 それでもずっと気には掛けていた。何かあったら自分が引き取る覚悟はあった。しかしそのことを誰にも話したことはないし、どこか他人事だと思っていたのも事実だ。自分のことで精一杯だと言い聞かせ、ずっと目を背けてきたのだ。臭いものに蓋をして、真実に向き合うことを最も恐れていたのは他ならぬ僕だったのだ。

 そんな人でなしの冷血人間に対して、母は話を続けた。

「半年前に仕事を辞めで、それがらずっど部屋さ篭っでる。だげども、ひと月ぐらい前だったけかな。知らない女の人が訪ねで来で、その人ど部屋で話し込んでがら、庭さ穴を掘るようになったんだ。朝がら始めて、正午になるどやめで、まだ部屋さ篭るんだげども」

 そう言って、母は裏庭の方を指差した。

 夏希のシャツがひどく汚れていたのは、穴掘り作業の後だったからなのかもしれない。しかし、なぜ彼女は突然穴を掘り始めたのだろうか。子供の頃の僕も同じようなことをしていたから気持ちはわからなくもないのだけれども、年頃の女性が毎日朝から穴を掘り続ける姿は不気味としか言いようがなかった。

 そして何より気になったのは、穴を掘るようになったのが「知らない女の人が訪ねてきてから」という点だった。その〝女の人〟とは誰なのか。母に訊くまでもなく、《左右対称の顔の女》であると考えて間違いなさそうだった——。

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