砂丘の満月

インサイド・アウト 第15話 原点O(3)

 ローブの男はここで一旦話をとめた。そして、勢いの弱まっている焚き火に新しい薪をくべた。炎は一瞬激しくうねり、木々の影が大きく揺らぐ。

 話を聞きながら、僕はまるで自分がその場で体験したかのように、その情景を鮮明に頭の中で描いていた。

 この長い話を始める前に、男は言っていた。「この話は君とは無関係のようでいて、実は密接に関係している」と。

 僕は『S』とは違って、学業の成績が良かったわけではない。大学だって中退しているし、家族構成も微妙に異なっている(僕は両親と亡くなった姉との四人家族だったが、Sには兄と、さらにもう一人姉がいた)。当然ながら高IQ保有者が属するという団体にも所属していない。しかしそれでもSという人物とは共通点がたくさんあるように思えた。誕生日、出身地、家庭環境、内気な性格、友人のいない学生生活……。

 生き方は異なれど、自分の人生は、まるでSと似た境遇を辿っているかのように思えた。『S』とは何者なのだろう? なぜローブの男は、見ず知らずの僕に対して彼の話をするのだろう?

 一時的に勢いを増していた炎が穏やかなゆらめきを取り戻したとき、男は再びその口を開いた。

「そのときSが進めていた研究——それは、『この宇宙の他にも別の宇宙が存在すること』を裏付けるものだった。複数の宇宙の存在を仮定する《多元宇宙論》は、それまでは理論的な裏付けのない単なる妄想にすぎなかった。人々の生活には直接的な関係のない、SF小説の中で都合よく使用される世界設定の一つでしかなかった。だが、Sがその存在を理論的に導き出し、観測による証明手段を提示してみせたことで、それは〝妄想〟から〝予言〟へと変わったのだった。このことは世界中の宇宙物理学者たちに衝撃を与えただけでなく、一般の人たちの常識を変えてしまうほどの出来事になった。

 それだけでなく、さらに彼は『人間の手によって新たに宇宙を創造する方法』まで導き出していた。しかし彼はその論文を発表することはなかった。人間の手で宇宙を創り出すことは、生命を人工的に誕生させるのと同じように、倫理に反することだと考えたからだった。

 世界の真理を追い求め続けた彼は、弱冠二十九歳にして、人類が決して手を出してはならない禁断の領域に足を踏み込み、公表せずに自らの胸の内に秘めることになったのである」

 焚き火でゆらぐ木々の影を眺めながら、ローブの男はここで静かにため息をついた。その強い瞳の奥に、物憂げな光が見えた気がした。

 男はさらに話を続ける。

「さて、君から見たら、天才的な頭脳を持つSの将来は何の陰りもないように感じられるだろう。世界に名を轟かせ、大成功を収めるのも時間の問題だと思っていることだろう。だがしかし、君も経験上知っていると思うが、そう単純に事が運ばないのが世の常というものである。絶望がそう長くは続かないのと同じように、良いことも長くは続かないのだ。光あるところに、影が必ずつきまとうのと同じように……。

 Sは、例えば学問や研究といった強い目的を伴うものに関しては、極めて頭の回転が良く、そのためには他人とコミュニケーションをとることも苦ではなかった。だが、特に目的のない遊びや雑談に関してはどう振る舞えばよいのかわからず、自ら輪に入っていくことができなかったのだ。それが周囲の誤解を招いた。彼は、人の血の通っていない冷血人間と周囲から評されていた。

 そんな彼だったが、三十歳になってまもなく、同じアパートに住む年上の女性と親密になる。きっかけは些細なことだった。お互いに惹かれあい、すぐに交際は始まった。やがて二人は別のアパートで一緒に暮らし始めた。

 それから程なくして、Sの恋人は体調を崩し、仕事を辞めた。そのとき、責任感があり誠実な彼は、自分が恋人を一生支え続けることを強く決意したのだった。今思うと、これが彼の運命を変えた大きな分岐点の一つだった。

 幸せだった。この暮らしがいつまでも続けば良いと願っていた。しかしやはり、良いこともそう長くは続かない。

 研究の成果を出している割には、Sは出世ができなかった。それは彼が知識欲以外の欲望を持っていなかったことに根本的な原因があると、私は考えている。食欲、性欲、物欲、出世欲……。人間が生きるためにはそれなりに欲が必要だと思うのだが、彼はそれらの欲望を一切持ち合わせていなかったのだ。だからいつも痩せていたし、自ら肌の温もりを求めることもなかった。日用品と書籍以外の買い物をすることもなかったし、周囲に媚を売るようなことも、自分の成果をアピールすることもしなかった。物静かで、真面目で、優しい性格だった。だから学問の発展のためなら、自分の手柄を他人に譲ることも厭わなかった。その性格は競争社会——特に実力以外の面も重要視される、その時代の日本の資本主義社会には極めて不向きだった。

 だから、飛び抜けた頭脳を持っているにも関わらず、大学での職務は講師で止まっていた。成果だけで考えたら教授になってもおかしくないのに、それでも昇進できなかったのは、すべて彼の不器用な性格が災いしていた。よく周囲の誤解を招き、頭の良さは嫉妬と反感を招いた。そのうち、周りに集まってくるのは、彼を貶めて成果を横取りしようと目論む連中ばかりになっていた。

 それでもSは、良い恋人に恵まれて幸せだった。恋人と結婚し、やがて二人の子供を儲けた。

 しかし、大学講師の収入だけでは、家族四人の暮らしを維持するのは困難だった。年々、借金は増えていき、彼が三十七歳になったときにはおよそ三百万円の借金を負っていた。そして日に日にその金額は増加する一方だった。

 それでも彼は、誰にも頼らなかった。両親にも妻にも相談しなかった。家出同然で出てきた実家の両親に、恩を作ることはしたくなかった。妻は相変わらず体調を崩したままだった。子育てするので手一杯であり、Sと分担しないと家事も成立しない状態だった。だから、金銭的に余裕がないことを伝えて、一定の金額以内に出費を抑えるようにお願いした。だが毎月の出費がその金額に収まることはなかった。

 家族を養うために、大学での仕事を終えた後、密かに副業を始めた。学力テストの採点や、家庭教師や塾講師のアルバイトをやるようになった。だが、そのような類の仕事は定常的にあるわけではない。だから仕方なく、レストランのウォッシャーやティッシュ配りなど、そのときに募集していて、自分でもやれそうな仕事はなんでもやった。

 やがて彼は、夜の街で働くようになった。とは言っても、ホステスを自宅まで車で送り届けるだけの仕事だった。深夜の短時間で手っ取り早く稼げるのは、昼間の仕事と家事をしなければならない彼にとって、非常に都合がよかった。

 無口でありながら物腰の柔らかいSの振る舞いは、日頃から頭の悪そうな男連中ばかり相手しているホステスたちの癒しになっていた。

 そしてある日、事件は起きた。

 彼のことを気に入った一人のホステスが『あなたの時間を買いたい』と言い出したのだ。普通であれば断るところだった。だが、家族を養うので精一杯になっていた彼は、迷わず承諾した。自分の時間を売り、体を売った。女の欲するがままに彼は振る舞った。そして、今まで一ヶ月かけてアルバイトで稼いでいた分の金額を、たった一晩で稼いだのだった。

 不思議なことに、罪悪感はまったくなかった。女と寝ている間、『家族を養うため』という言葉を頭の中でずっと繰り返していた。シングルマザーでも、子供を養うために風俗で働く者がいるだろう。それと同じことだ。何が悪いんだと、彼は自分に言い聞かせ続けた。

 Sが体を売ったのは、これが最初で最後だった。普通の中年男性であれば、若くてきれいな女性に求められて悪い気はしないだろう。それどころかこの上ない喜びを得るに違いない。だが彼にはそのような感情は一切湧かなかった。

 気持ち悪い。彼が感じたのはそれだけだった。自分が気持ち悪い。そもそも男と女という性別があること自体が気持ち悪い。人間……いや、生物それ自体が汚らわしい存在だと、彼は考えた。

 すべてが壊れていった。彼の中の何かが崩れ始めていた。だが、精神的に辛ければ辛いほど、それに反比例して周囲には明るく振る舞うようになった。それまでの無口で不器用な性格がまるで嘘だったかのように、よくしゃべるようになった。家では子煩悩になり、今まで以上に家事を率先してこなした。それでいて、朝は家族の誰よりも早く起きて仕事に行き、大学の仕事の後は短時間のアルバイトをして、帰宅後は子供を寝かしつけた。それから食器の片付けをし、家族の誰よりも遅い時間に寝床についた。

 客観的に見たら、誰がどう見てもSは良い父親であり、理解のある良い旦那だっただろう。

 そしてある日、Sは失踪した。妻と二人の子供を残して。

 そのような素振りを見せることも、書き置きを残すこともなく、ある日、突然——」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?