砂丘の満月

インサイド・アウト 第21話 inside-out(8)

 一時間ほど飛び続けた頃、見覚えのある小さな建物が目の前に現れた。

 砂漠という場所には似つかわしくない、三角屋根の木造の小屋。僕たちは地上に降り、無人駅と言い表すのが最も適切な小さな建物の中に入った。

 地響きはいまだ雷のように大地を震わせていた。

 大地だけでなく、この宇宙全体が震えていた。時空は歪み、物理法則そのものがリセットされようとしていた。宇宙を破壊するときの感覚にとてもよく似ていた。だが、これほど強く揺れているにも関わらず、この砂漠の無人駅はびくともしていない。まるでここだけ何かによって守られているかのようだった。

 息苦しさと強い耳鳴りに耐えきれず、僕はベンチに腰掛けた。寄り添うように麻衣も横に座る。

「わたしたち、これからどうなるのかしら」麻衣は小さな声でつぶやいた。「《原点O》が滅びれば、わたしたちの宇宙も滅びることになるって、あの声が言ってたよね」

 母なる宇宙が滅びれば、その子となる宇宙もまた、滅びることになる。この因果関係を解かない限りは、僕たちの宇宙は巻き添えにされ、僕たちもまた、《原点O》とともに消滅してしまう。でも――。

「あの人が言っていたように、僕たちはすでに〝答え〟を知っている」

 僕たちは答えを知っている。その能力もある。
 だけど、本当に実行してしまっていいのだろうか? 人間の枠を超えて手に入れた神の力を、自分たちが生き長らえるために使ってしまっていいのだろうか? それはすなわち等々力がいままでやってきたことと同じことをしようとしているのではないのだろうか?

 僕は《ローブの男》とは異なり、天才的な頭脳は持ち合わせていなかった。だけど、幸か不幸か、そのことが僕に科学者としての道をあきらめさせ、普通のサラリーマンとして生きることを選択させた。

 もし僕に天才的な頭脳が与えられていたのなら、等々力のように、永遠の命を手に入れて宇宙のすべてを我が物にしたいと願っていたかもしれない。そう考えると、僕も等々力も、本質的には同じような存在だったと言える。そうだ。僕もあいつも、根本にある好奇心は一緒なのだ。何が原因なのかはわからないが、紙一重の差で、僕たちは運命を分けることになっただけなのだ。

「ここに残るよ」と僕は言った。

「どうして?」

 麻衣は驚いたように目を見開くと、その直後には悲しそうに涙を浮かべていた。

「僕には戻る権利なんてないから」

 麻衣は深く息を吐いた。

「それなら、わたしも残るわ。あなたに生きる権利がないと言うのなら、わたしにも生きる権利はないもの。両親からは見捨てられているし、家にこもってばかりで社会には何も貢献していない。恋人もいない。友人だって、わたしがいなくなれば最初は悲しみはするかもしれないけど、いなければいないで、別にどうってことはないと思う。ま、宇宙が滅んでしまえば友人も消えてしまうわけだから、そんなこと考えるのも無意味なんだけどね」

 やけにあっけらかんとして、麻衣は言った。

「それに、あなたには帰りを待ってくれている人がいるじゃない。あなたの宇宙の中で、わたし、会ったの。夏希さんは、いまも病院で、あなたが目覚めるのを待ってる。あなたがお姉さんにそうしてきたように、夏希さんはあなたが目覚めるのを待ち続けているの。お互い、言葉を交わしたことはほとんどないかもしれないけれど、どこか通じる物を、あの子は感じているみたい。あなたは姉を失い、あの子は大切な母を失った。その喪失感を共有できるのは、あなただけなのよ」

 その言葉を聞いて、僕ははっとした。ゼアーズとしてひとつの宇宙の神になったとき、僕は誓ったのだ。今度こそ、姉と夏希が幸せに暮らす世界を創り出そうと。結局、その願望は叶わなかったけれども、まだあきらめるのは早いのかもしれない。姉を生き返らせることはできないにしても、夏希は、まだこれからの人生がある。無限の可能性がある。その可能性を、いま、僕が断ってしまうわけにはいかない。

「頭の中で、僕たちの宇宙が《原点O》の外側に移動している状態をイメージするんだ」

 言いながら、目を閉じてイメージを膨らませた。両親の手から離れ、独り立ちする子どものように、それぞれの宇宙は誰のものでもなく、個別に存在している。もう《原点》は存在しない。僕の宇宙が原点でもあり、麻衣の宇宙が原点でもある。ゼアーズが創り出した無数の宇宙も、それぞれが原点そのものであり、誰の親でも誰の子でもなく、完全に独り立ちした世界。

「戻るのね、わたしたちの宇宙へ」

「うん」目を閉じたまま、僕はうなずく。「そうしたらまた、いつも通りの日常がやってくる」

「いつも通りの日常……か」麻衣は寂しそうにつぶやいた。それから、ふふっと笑いをこぼし、話を続ける。「またね……と言いたいところだけど、わたしたち、ここでお別れなのよね」

 どうなのだろう? 本当にこれで最後なのだろうか? 元々は別々の宇宙からやってきたふたりなのだから、もとの宇宙に帰ったら、もう二度と会うことはできない。理論的には、そういうことになる。

 でも、本当に、もう二度と会うことはできないのだろうか?

「最後にさ」と僕はつぶやいた。
「ん?」
「もう一度、手をつないでも、いいかな?」
「うん」

 僕の左手を、冷たい手が優しく握りしめる。

「目を閉じて、イメージを強く持って」

 こくり、とうなずくのが目をつぶっていてもわかった。

「わたし、考えてる。あの女の人が創り出した宇宙が、この《原点O》には収まりきらないくらい大きくなって、そこでたくさんの人たちが暮らしている姿を。そして、あなたの宇宙も同じように大きくなっていって、わたしの宇宙と繋がるの。やがてそれはひとつの大きな塊となって、元々どっちがどっちだったのかも区別が付かなくなるほど、ごちゃまぜになる」

「重ね合わせの原理」頭の中にふっと言葉がよぎる。

「え? なに?」

「ふたつ以上の波が重ね合わさるとき、それぞれの波が合成されて、ひとつの波になる。同じ相の波同士が合成されると互いに強め合い、逆の相の波が合成されると互いに打ち消し合うことになる。これをミクロの世界に当てはめた場合――」

 物質の基本的単位を、一次元の拡がりをもつ〝弦〟であると考えた弦理論。この理論が正しいとすると、この宇宙を構成するすべての粒子は、弦の振動として表すことができる。

 振動とは、つまり、波のこと。波として振る舞うからには、重ね合わせの原理を適用することができる。

 おそらく、僕の宇宙と麻衣の宇宙は、とてもよく似ている。同じ時代を生き、夫婦の契りを交わした《ローブの男》と《左右対称の顔の女》がそれぞれ創り出した宇宙なのだから、似ているのは当然とも言える。

 類似したふたつの宇宙を重ね合わせた場合、どうなるのだろう?

 双方に存在するものは、合成されてもやはり双方に存在し、一方にしか存在しない物でも、合成後の宇宙では存在することが可能なのだろうか? 僕と麻衣がどちらか一方の宇宙にしか存在しなかったとしても、ふたつの宇宙を合成することで、もしかすると同一の時空間に存在することが可能になるかもしれない。

「君が想像した宇宙を、もっと具体的にイメージするんだ。僕たちの宇宙が合体している姿を、できるだけはっきりと」

「わかった」

 麻衣の返事は耳鳴りによってほとんどかき消されていた。周囲の音も、もうほとんど聞こえない。地響きの音も、自分の呼吸の音さえも聞こえない。それでも、脳内のイメージだけは崩れてしまわないように、一点に全神経を集中した。激しい頭痛がする。吐き気もする。少しでも気を抜くと、この肉体ごと壊れてしまいそうなくらいに体中が痛い。

 それでもイメージを続ける。たったひとつの〝例外〟を除き、僕たちの宇宙が《原点O》の外側に表出し、重なり合った姿をイメージする。いままでに見たこともないし、これからもけっして見ることができない宇宙の合成のシーンを頭の中で無理やり想い描く。この肉体も、精神も、僕のすべてを犠牲に覚悟で――。


 そのとき、世界は真っ白になった。


 まぶたの裏側が、こんなにもまぶしいと感じたことはいままでになかった。


 僕は悟った。
 これで本当に最後なんだと。


「またね」と僕は心の中で言った。

「うん、きっと」と、誰かの声が聞こえたような気がした。


 もう、何も見えない。
 何も感じない。
 何も聞こえない。


 それでも、左手の冷たい感触だけはいつまでも残っているような、そんな気がした。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?