中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第4話 エス(1)

 『S』が投稿した《青木ヶ原樹海》の写真を見た翌日、わたしはかつての職場の同僚だった友美と一緒にファミレスで遅めのランチを摂りながら、取り留めもない話をして暇を潰していた。

「麻衣はそんなに良いところがたくさんあるのに、どうして自分のことをそんなに嫌いなの? あたしなんか、デブでチビでお調子者だけど、自分のこと好きだよ?」

 自分自身に対して否定的な話しかできないわたしを、友美は自虐ネタも交えて一生懸命励まそうとしてくれていた。

 彼女の自己肯定感の強さは、わたしから見ても羨ましいものがあった。彼女には悪いけれども、その冴えない外見で、さらに今まで恋人もできたことがないのに、常に前向きでいられるのが信じられなかった。

「わたしだって好きでこんな感じになったんじゃないよ」と反論しながらも、元気付けようとしてくれる友美の気持ちに応えようと無理やり笑顔を作って言った。

 だけど彼女は彼女、わたしはわたしだ。わたしだって、好きでこのように卑屈な人間になったのではない。自分のことを好きになれるのなら、今すぐにでも好きになりたい。それができないから、今まで苦しんできたのだ。

 わたしが内心そのようなことを考えていることを知る由もなく、彼女は「麻衣は頭が良すぎるんだよ」と言ってため息をついた後、「細かいことによく気が付くし、仕事もできるのに、考えなくても良いことをいちいち考えるんだもん」と不服そうに頬を膨らませた。

 友人が言うところのわたしの美点は、裏をかえせばわたしの欠点でもあった。細かいことに気がつくのは通常の人よりも神経質で敏感な性質だということに他ならない。普通の人が気づかないようなことが気になったり、他人の気持ちを必要以上に汲み取るあまり、客観的に見たらそれが賢そうに見えるだけなのであって、実際に頭が良いのではない。できることなら細かいことには気付かずに心穏やかに暮らしていたい。それができないのは、父から理不尽な倫理観を叩き込まれて、常に周囲の目を意識して生きるように刷り込まれてきたせいだった。

「それに麻衣はあたしと違って、ちゃんと彼氏もいる」、そう言って友美は口を尖らせた。

 彼氏といっても、最後に会ってからすでに三ヶ月以上が経過している。些細なことで喧嘩別れみたいになったまま、今まで放置されてきたし、わたしも放置してきた。

 恋人同士と表現するにはあまりにお粗末な関係だった。愛されていると感じたことはなかった。彼が「会いたい」と言えばわたしから会いに行き、「疲れているから会いたくない」と言われたら、わたしがどんなに会いたくても、何も言わずに彼の要求に従った。デートらしいデートもしたことがない。三年前に告白されてから交際を開始して、これまで何度か喧嘩することはあったけれど、これほど長い間連絡を取り合わなかったことはなかった。このまま自然消滅するのかもしれない。もしかしたら、もうすでに消滅しているのかもしれない。

 もう彼と三ヶ月以上も連絡を取り合っていないことを隠したまま、わたしは答えた。

「でもあの人、わたしのことを本当に好きかどうかもわからないよ。告白されたときも、真剣なのか遊びなのかわからない感じだったし……」

「そんなこと言って、指輪渡されたら、その時点で即オッケーでしょ?」

 即オッケーと言うのは、結婚のことを指すのだろう。彼女は脳内にお花畑を咲かせているかの如く虚ろに宙を見つめ、特徴的な猫撫で声を出しながら言った。空想上の彼氏に結婚の申し出をされた光景でも妄想していたのだろう。そうと思うと、例えようもないほど哀れな気持ちになった。

「いやいや、それは無いかなぁ」とわたしが首を横に振ると、「プロポーズされても断る気なの?」と友人は信じられない物を見るかように目を見開いて言った。

「たぶん、ね。それにそもそもあの人、結婚したくなさそうだし」

 疎遠になった恋人の顔を思い出そうとしたが、モヤがかかったように思い出せなくなっていた。三ヶ月会わないだけで忘れてしまうなんて、所詮その程度の恋だったのかもしれない。

「男ってさ、よく『結婚するのはもうちょっと先がいい』とか調子の良いこと言うけど、その『ちょっと』の感覚って、男と女じゃあ全然違うよね。女が言う『ちょっと』は長くてもせいぜい半年くらい」

「うんうん」

 本当の事を見抜かれないように、氷が溶けてすっかり薄くなったアイスカフェラテを一生懸命ストローで啜りながら、多めに相槌を打った。


 何を思ったのか、友人は爪を数秒間眺めてから、思い詰めたような表情をして言った。

「こないだ会社の後輩に『若い頃はネイルとかやってたんですか?』って聞かれたんだけどさ」

「うん」

「悪気がないのはわかるんだよ。その子は入社二年目の二十四歳くらいの子だから、ひょっとすると『若い頃』っていうのは大学生くらいのことを指しているのかもしれないけど、これってあたしはもう若くないってことを遠回しに言ってるようなもんじゃん。いやー、あたしも、もうそんな歳になったんだなーって思ったよ」

 深刻な表情をしていたので何かと思ったら、全然大した話ではなかった。彼女は彼女で悩みを抱えているのかもしれないが、所詮この程度のものなのだ。彼女のありきたりで単純な悩みに、わたしは内心あきれていた。

「そうそう、先週イチゴ狩りに行ってきたよ」

 彼女は再び話題を変えた。次から次へと会話のネタが尽きない友人にはいつも舌を巻く。幸いなことに、わたしの心の内を気にする様子もない。

「イチゴ狩りっていいよねー。好きなだけ食べられて」、友美はスマートフォンを取り出しながら言った。「お友達と一緒に行ったんだけどさ……」と、そのとき一緒に行った友達と撮影したと思われるツーショット写真をわたしに見せてきた。わたしにはその友達が友美よりも十歳ほど若く見えた。

「友達、童顔じゃん」とわたしは思ったことを口に出していた。

「これでもタメなんだよ?」

「そうなの? 学生に見える!」

 思ったことをそのまま言ってしまったあとで、「しまった」と思った。これだとまるで友美の方は若く見えないと言っているようなものだった。彼女の会社の後輩と同じことを言ってしまったと、少し後悔した。

 それでも友美は何とも思っていない様子で、今度は別の女性の写真を表示した。「この人もあたしとタメ。中学からの友達。これでも既婚なんだよ?」

「あはは……ほんとだ。若いね」、今度はなるべく余計なことは言わないようにした。

「そうだよね。若いよね」と言い、「みんな肌がくすんでないよね」と付け加えた後、友人の顔から笑顔が消えていた。

 おそらく、自分もまだまだ若いよ、と言って欲しかったのだろう。多分、わたしからの励ましの言葉を待っていたのだ。しかしそう察してはいても、わたしはお世辞を言うことができなかった。相手の心に気がついても、何も言ってあげることができない。それによってわたしは余計に罪悪感と無力感を増すのだった。調子よく言葉が出たらどんなに良いのだろう。そうしたら、もっと生きやすくなっていたのは間違いなかった。

 すでにお世辞を言うタイミングは逃していたわたしは、少々強引に無理に話題を変えた。

「そうそう、イチゴ狩りってどこに行ったの?」

 その場の空気を変えようとできるだけ明るく言った。すると友美は何事もなかったかのように笑顔を取り戻し、身を乗り出して嬉しそうに言った。

「山梨県の富士山があるあたりだったかな。ああ、確かあの有名な《青木ヶ原樹海》の近くだったと思う。車で走ってる時、森に吸い込まれそうな感じで何だか怖かったなぁ」

 また青木ヶ原樹海、か。

 昨日、『S』が投稿した写真の場所だ。

「樹海の写真なんて撮ってないよね?」、わたしは思わず訊いていた。

 友美は一瞬きょとんとしたが、すぐにいつもの笑顔に戻って言った。

「撮ってないよ。だって、写真を撮ったりなんかしたら何か余計なものまで写りそうじゃない。お化けとかそういうの、あたし苦手だし」

「そういえばそうだったね」

「でも急にどうしたの? 心霊写真でも見たかった?」

「まあね」とわたしは素っ気なく答えた。どんな場所なのか興味を持っていたのは事実だ。だけどわたしはそれ以上に、昨日に引き続き今日も《青木ヶ原樹海》の名前を見聞きしたことが気になっていた。これはデジャブなどではないことはわかっていたが、デジャブを見たときのような妙な胸騒ぎを覚えた。

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