中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第3話 不在着信と差出人不明の手紙(4)

 手紙はここで終わった。

 僕は三枚の便箋を手に持ったまま呆然と考えていた。

 論理を超えたものとは、一体誰なのだろう? それに過剰な敬語。もはや礼儀正しさを通り過ぎて嫌悪感すら感じられた。その丁寧な物言いとは対照的な残忍な内容は、胸糞の悪い文章のお手本のようだった。これならまだストレートに乱暴な言い方をされた方が可愛げがあるというものだ。

 嫌がらせにしてはやけに手が込んでいる、と僕は思った。

 便箋を開き、手紙の冒頭部分をもう一度読み返してみた。「重要なのは、これを読んだのが誰なのか、ということなのです。あなたが封を開けて読んだのなら、これはあなたに宛てて書かれた手紙だと考えて間違いありません」

 言いたいことはわからなくもない。しかし全く論理的ではなかった。手紙を持ってきた人が、間違えて他の人の郵便受けに入れてしまった可能性だってあるはずなのだ。

 やはりこの手紙は自分宛てじゃない、という気持ちが僕の心のどこかに残っていた。人に恨みを持たれるようなことをした覚えはないからだ。例えば法に触れるようなことはしていないし、他人を貶めるようなこともしていない。誰にも迷惑を掛けず、慎ましく静かに暮らしているつもりだ。自分で言うのも何だが、僕ほど無害な人間はそういないと断言することができる。もちろん至らぬ点があれば潔く謝るつもりだ。しかし手紙の主が僕にそのような情状酌量の機会を与えてくれるようにはとてもじゃないが思えなかった。

 問題は、「あなたにはどうか、自ら消えていただきたいのです」という一文だった。

 歯に衣着せぬ言い方をすると、要するに「死んでくれ」ということだろう。いわば自殺教唆である。だけどそれにしてはあまりにも脈略がなく、それゆえか不思議と悪意は感じられない。しかし微妙に遠回しな言い方が、必要以上に恐怖心を煽った。

 そして手紙の主は僕のもとに誰かを送りつけるらしい。「彼」と言うからには男性なのだろう。その人物に誘われたら黙って付いて行き、聞かれたことに答えるだけで僕の身の安全は保証される。でも僕は、先ほどトドリキという男にも電話で話したように、あの女とそれほど会話を交わしていない。だからとてもじゃないが自分の命と引き換えにできるような有益な情報を持っているとは思えなかった。そんな状態で、その『担当の者』とやらに付いて行ってしまって本当に大丈夫なのか、僕は底知れぬ不安を感じた。

 外の風が窓を激しく揺らした。カーテンの隙間から暗澹たる夜の影がこちらを覗き込んでいる。

 鼻からゆっくり深呼吸して、口から細く吐いた。それを二度繰り返して、僕はできるだけ平静を保とうとした。

 これは脅迫なのだ。どの道、相手の要求を飲まなかった場合は何らかの手段で僕の存在は消されてしまうだろう。二度目の手紙は警告の意味で、三度目の手紙を僕が目にすることはないと書いてあったからだ。

 トドリキという男といい、この手紙の主といい、僕から一体何を聞き出そうとしているのだろうか。それほどの価値がある情報を自分が持っているとはやはり思えない。彼らの真のターゲットは何なのか。その狙いの正体が僕は気になった。

 僕はデスクへ行き、パソコンの電源を入れた。それからウェブブラウザを開いて、新手の詐欺の手口についてしばらく調べてみた。自宅にいきなり請求書を送りつける手口は定番のようだが、それらの詐欺事件で使われた封筒の材質について触れている記事はもちろん一つもなかった。役に立ったのは、そのような手紙には必ず連絡先と振込口座が記載されているという情報だった。僕が受け取った手紙には、差出人に連絡の取れそうなものは一切書かれていない。どうやら詐欺とは少し異なるようだ。

 僕は胸の中が重くなるのを感じた。左右対称の顔の女とトドリキという男に加え、この差出人不明の手紙の件が本日起こった不可解な現象として新たに一つカウントされたからだ。

 できるだけ元どおりになるように、三枚の便箋を丁寧に畳んで封筒に戻した。買ってきたビールには結局手を付けずに冷蔵庫にしまった。それから僕は浴槽にお湯を張り、風呂に入った。



 湯面から発する蒸気を見ていると、熱いコーヒーの表面に漂う白い湯気を眺めているかのようだった。コーヒーから連想して、昼間に過ごしていた喫茶店の様子が思い起こされる。それから左右対称の顔の女が瞬きもせずこちらを見つめている様子が網膜に再現された。続けて、女が話した意味不明な言葉が次々と頭の中にエコーする。

 彼女が僕にした「この世に満足したのではないですか?」という質問。その意図は、僕をこの世界から連れ出すためだと彼女は言った。これから降りかかるという《絶望》から僕を逃すために、この世から連れ出す手助けをしてくれるということだった。

 それから彼女は、僕が絶望の淵に落ちて這い上がって来れなくなる前にこの世界から連れ出すと言った。だけど、彼女の言う《絶望》とは何だろうか? その言葉を頭の中で繰り返してみる。しかし、やはりそれが何のことかまったく見当が付かなかった。仕事で多少悩むことはあるが、絶望と呼ぶほどではなかった。女性関係のトラブルを起こそうにも、そもそも恋人はいない。あとは病気の可能性があるが、定期健診の結果は常に極めて良好だった。

 だが最もわからないのは、なぜ彼女はよりによって僕に声を掛けたのか、ということだった。僕と彼女は知り合いではない。なのに彼女には僕を選択した明確な理由があると言った。

 僕は頭をかきむしった。これではまるで、明らかに手掛かりが不足している状態で謎解きのシーンに突入した推理小説を読んでいるようなものだ。

 風呂の湯気を眺めながら、今日起こった出来事を時系列に沿って頭に思い描いていった。女と出会う前までに読んでいた小説のストーリー。左右対称の顔の女が身に付けていたリクルートスーツと、全てを見通すような真っ直ぐな目。彼女との奇妙な対話。静まり返った店内。初めて聞き取ることができたジャズのベースラインの音階。熱いコーヒーの表面に漂う白い膜。いつもと変わらない街の様子。トドリキという男からの電話。差出人不明の手紙——。

 それからコンビニから帰るときに見た建築現場の掘削機が妙に頭に引っかかった。僕が自宅に掘っていた、この世から抜け出すための穴——。その目的と、左右対称の顔の女が言っていた「この世界から連れ出す」という言葉。この二つが妙にリンクしているように思えた。

 全てが密接に関係しているように見えて、一つ一つの出来事に少しも関連性を見出すことができなかった。明らかにピースが足りない状態でジグソーパズルを組み立てるようなものだった。

 湯面から昇る蒸気は浴室の壁に水滴を浮かび上がらせ、やがてひとまとまりになって流れ落ちた。そして再び蒸気となって、宙へ舞っていく。


 風呂を出てリビングの窓を開けた。春夜の冷たい空気は風呂上がりの体にはむしろ心地が良かった。街は依然として沈黙している。それでも数分に一度、電車の走行音が冷えた空気を伝って日常を僕に知らせてくれた。これは普段と何も変わらない、いつも通りの日曜日の夜なのだと——。

 時計は十一時半を指していた。僕は窓を閉め、寝る準備をした。

 ベッドに入ったが、興奮してなかなか寝付けなかった。今日は色々あったのだ。心が落ち着かないのは仕方がないことだった。横になって本でも読んでいれば、そのうち睡魔は襲って来るかもしれない。

 僕はベッドを出て、今日買った文庫本を探した。しかしどんなに探しても見つけることができなかった。そういえば、家に帰ってから一度も見ていない気がする。

 喫茶店を出てから自宅に到着するまでの行動を一通り思い返してみたが、どこで無くしたのか思い出すことができなかった。自宅に帰ってきた時点で、すでに文庫本の存在感は皆無だった。喫茶店に置いてきたに違いない。

 そこで僕ははっとした。あの文庫本について、内容どころかそのタイトルさえも思い出すことができなくなっていた。半分ほど読み進めていたにも関わらず、何一つ記憶に残っていなかった。それが純文学なのか、推理小説なのか、恋愛ものなのか、ノンフィクションなのかさえも、記憶から綺麗に消え去っている。その代わり、投影機のスライドが巧みに差し替えられたかのように、女の美しすぎる左右対称の顔とそれとは不釣合いの地味なリクルートスーツ姿が脳裏に焼き付いていた。

 きっと疲れているのだ。今日は本当に色々あった。ゆっくり眠って、明日になれば何か思い出せるようになるかもしれない。それに万が一思い出せなかったとしても、何かに支障が出るような大きな問題でもない。本当に些細なことだし、今さら考えても仕方がないことだった。
「仕方ない……」、そう心の中で呟いてベッドの中に潜り、照明を消した。

 僕の奇妙で長い日曜日は、このようにして終わりを告げた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?