中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第5話 黒ベストの男(4)

「そう言われましても、正直なところイメージがわかないのです。宇宙の外側に別の宇宙が存在したとしても、現実味がないというか、現実問題としてそれが僕たちの生活にどのような影響があるか解らないと僕は言っているのです。それに天文学者たちが未だに宇宙の果てを観測できていないのと同じように、外側からこちら側の宇宙を認識することなどそもそも不可能なのではないでしょうか」

 僕が説明すると、黒ベストの男は不機嫌そうにため息をついた。頭を掻き、しっかりセットされていたツーブロックヘアが少しだけ乱れる。「困ったな。早く話が済むかと思ったら、そう簡単にはいかなそうだ」と僕に聞こえる程度の声で呟き、鼻の先でせせら笑った。それから男は考え込むように腕組みした。

 この男は結局のところ僕に何を言いたいのだろうか。男の目的がわからないのだから、これ以上どう反応すべきなのか当然わかるはずもない。

 僕はすっかり冷めたコーヒーを口元に運び、円を描くように揺らした。その微かな香りを嗅ぎ取るくらいでしか沈黙をやり過ごす方法を見つけられなかった。男の不快な香水の匂いは、すでに脳が順応したらしく、もはや全く気にならなくなっていた。

 妙な静けさを感じて辺りを見渡すと、店内にはいつの間にか黒ベストと僕の二人だけになっていた。ほんの数分前までいたはずの客は姿を消し、レジの店員はバックヤードにこもって何やら作業を始めている。つい先ほどまで店内に流れていた音楽は止まり、埋め込み型の大きな二つのスピーカーは単なる壁の飾りと化していた。

 結局コーヒーには口を付けず、僕はそっとカップを戻した。置いたカップのソーサーに触れる音が店内の止まった空気を動かした時、黒ベストの男は再びその口を開いた。

「それならば……」、綺麗に切り揃えられたあごひげを撫でながら、男は言った。「もしも私が、『この宇宙の外側からの脅威に晒されている証拠を見つけたかもしれない』と申し上げたら、いかがなさいますか? それでもあなたは、自分には一切関係ない妄言として、この問題を一蹴するのですか?」

 怪訝に思いながらも、僕はこの男の話に興味を抱かずにはいられなかった。僕の中にわずかに残っている、かつて宇宙に魅せられた少年の時の心が、男の話の続きを聞くことを欲している。

「そんな証拠があるのですか? でも、どうやって……」

 男は勿体振るように人差し指を立てて得意げな笑みを浮かべた。

「まだ仮定の域を脱してはいないのですが、少々不可解な現象を確認しておりまして……」、そう言うと、男はカバンの中からクリアファイルを取り出し、その中から一つにとじられた数枚のレポート用紙と一枚の写真を取り出してテーブルの上に置いた。レポート用紙の冒頭には、大きめのフォントで学術論文のようなタイトルが掲げられている。

「それは?」と僕が食いつくのを見て、男は嬉しそうに資料を持ち上げて言った。

「これは、この宇宙の外側に生命体が存在することを証明するための検証方法について私が書いた論文です」

「そのような大切な資料を僕に見せてしまってもいいのですか?」

「それは心配には及びません」、優しい口調だったが、どこか見下したような言い方だった。「この資料を読んで、仮にあなたが誰かにこのことを話したとしましょう。ここに書かれている誰も知らない驚くべき事実を誰かに伝えたとして、あなたの言うことをまともに信じる人がいるとお考えですか? 話したところで、ただの戯言や妄想と思われるのがオチではないでしょうか。あなたがその事実を真剣に伝えようとすればするほど、その言葉は針のない時計のように意味もなく空回りし、ますます誰も耳を傾けなくなるのは火を見るよりも明らかです。日並さんなら、私の言いたい事をご理解いただけると思うのですが」

 そう言って男は紅茶のカップを空で弄んだ。

 この男の言う通りだった。人間は、自分が想像できないものを信じようとはしない。たとえそれが事実だとしても、それが自分の想像力を凌駕した時点で人はそれを受け入れることを全力で拒むのだ。そして時に人を狂人扱いし、社会から排除しようとする。

 幼少期に自分の話をまともに聞こうともしなかった先生や同級生たちの顔を思い浮かべながら、僕は男に質問した。「それで、外の世界の存在をどのようにして証明しようとしたのですか?」

 男は黙ってテーブルの上にある論文を僕に差し出した。サングラスの奥の見えない瞳が「これを読めばわかる」と語っている。僕もまた何も言わずにそれを受け取り、細かい文字が隙間なく印刷されたその論文を、慎重に読み進めていった。


観測可能な宇宙におけるイレギュラー分子の存在確率とその確認方法について

 宇宙はこれまで、可視光線や赤外線といった様々な波長の電磁波を検出することによって観測されてきた。近年では、かのアルベルト・アインシュタインがその存在を予言した「重力波」を検出することにより、原始の宇宙を観測しようする試みがなされている。だがしかしその手法にも限界があることは否めないだろう。なぜなら、それらの正統的な手法ではあくまで理論上観測可能な範囲の宇宙しか認識することができず、それは今後どんなに技術が発達しようとも、その範囲を超えた先の宇宙を観測することは原理的に不可能だからである。つまりこれは、我々が観測することができるのはせいぜいこの宇宙の果てまでが限界であり、その先に別の宇宙が広がっていることを証明するには、これまでの常識と異なる別の手法を検討しなければならないということを暗に示唆しているのだ。

 ここで一つの仮説を立てることにしよう。もし仮にこの宇宙の外側に別の世界があるとしたら、そこはどのような世界なのだろうか? 私が推測するに、外の世界もまたこの宇宙と同じような時空間であるに違いない。それはおそらく一般的に言われるパラレルワールドなどというものではなく、我々の宇宙を完全に内包した世界——つまり親の宇宙(母なる宇宙)なのではないか、という少々大胆な仮説である。つまり、気の遠くなるほどの大きさを持つこの宇宙が、それよりもさらに大きな別の宇宙の中に存在するかもしれないということなのだ。そこには我々の知る地球もなければ太陽もない、全くの別世界が広がっているのである。もしかしたら我々の宇宙が、外側の宇宙に存在する何者かによって、宝石箱ほどの小さな立方体の中で飼育されていると想像することもできる。幾ら何でもこれはあり得ないと思われるかも知れない。だがその馬鹿げた想像を否定することは、我々には到底できないことなのだ。何度も言うように、それを証明することは理論上不可能なのである。水槽の中で生まれ、死んでいく金魚が、水槽の中に留まりながらこの世界の真の姿を確かめることができないのと同じように、我々人類もまた地球という檻の中に囚われながらこの宇宙の外側を認識することはできないのだ。

 さて、これを踏まえ、私はさらに仮説に仮説を重ねた。この宇宙は、外側の宇宙から見たら『視覚的に凝縮された宇宙』であり、観察対象なのだと。人間が金魚を水槽に入れて楽しむのと同じように、彼らもまた私たちを鑑賞しているのである。あるいはただ鑑賞するだけでなく、我々を宇宙ごと養殖することで何らかの利益を得ようとしているのかもしれない。つまり、そこにいるのは神などという高尚な存在ではなく、我々人類と同じか、それ以上の野蛮な精神と知能を持つ生命体である可能性は大いにあり得るのだ。

 そして私は、彼らはすでに我々人類に接触しているのではないかと考えた。そのことに誰も気がつかないのは、彼らが通常の移動手段を使ってこちら側の空間にやってくると思い込んでいるからである。私はこのように推測した。この宇宙を掌握しているのであれば、この地球に来るためにわざわざ宇宙の果てを超えてくる必要はない。彼らは突然我々の前に現れ、突然消える。その方法は我々の想像をはるかに超えており、決して真似することはできないのだ。

 実際に、世界の各地でこのような不可解な現象は幾度となく確認されてきた。突如現れ、消えていく存在。それらは未確認生物と呼ばれ、オカルト的存在として扱われてきたが、これこそが私の言う《外側の宇宙から来た存在》なのであった。以降、私はその『本来この宇宙にいるはずのない存在』のことを《イレギュラー分子》と呼ぶことにし、それが存在する可能性と、その存在を確認する方法について次項以降で論じることにする——。

「どうです? なかなか興味深い考察でしょう?」

 一枚目を読み終わったところで、黒ベストの男は得意げに僕に話しかけてきた。
「ここから先は私の方から直接説明しましょう」、そう黒ベストは言うと嬉しそうにテーブルの上に置かれた写真を取り上げ、そこに写っているものを眺めながら言った。「そこに書いてある、突然現れ、突然消える者。つまり《イレギュラー分子》を見つけ出すために、私たち『日本アウトベイディング』は長い年月と膨大な資金を費やして、その存在を検出するためのシステムを構築したのです」

「そのシステム……とは?」

 僕は男に質問しながらも、その答えを聞くのを躊躇っていた。『日本アウトベイディング』という会社が作ったシステムは、少なくとも平和的な代物のようには思えなかったからだ。

 店には相変わらず他に客はいない。店員もバックヤードにこもったままだ。物言わぬ二つの大きなスピーカーは、まるで僕を監視する巨大な目のようにも感じられた。誰もいないにも関わらず、誰かに見られている気がしてならなかった。

 そして黒ベストは勿体振るようにゆっくりと口を開いて言った。

「この世界に〝神〟が潜り込んだことを検出する仕組み。これが私たちの作り上げたシステムです。我々は愛着を込めてこう呼びました。〝神〟検出器——と」

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