砂丘の満月

インサイド・アウト 第21話 inside-out(2)

「自分で飛べそう?」と女の人は僕に訊いた。

 僕は強く首を横に振った。「そんな、まさか飛べるわけ……」

 そこまで言いかけて、後ろを見た。女の人が僕を背後から抱えたまま、空を飛んでいた。翼が生えているわけでも、ドローンのような飛行装置を装着しているわけでもない。彼女は身一つで空を飛んでいるのだ。

「大丈夫。さっきやったみたいに、自分のことを信じてみて」

 何を言っているのか、僕はすぐに理解した。先ほど頭の中で念じたのと同じように、自分が空を飛ぶ姿をイメージすればよいのだ。

 僕は空を飛ぶことができる。彼女の手を借りなくても、自分自身の力だけで。

 そう強く念じると、急に、自分の体がふわりと浮く感覚がした。まるで空気にでもなったかのような感覚だった。

「ほら、できたでしょう」

 彼女はふふっと笑いながら僕の体から手を放すと、横に来て、僕の右手を握った。

「君は、誰?」と僕は訊こうとして、言葉を飲み込んだ。その横顔と声を聞いて、彼女が何者なのか、なんとなくわかったからだ。ローブの男が僕に見せた夢の中で、Sの妻だった人にとてもよく似ていた。声を聞いたときから、懐かしい声だと思っていた。物腰柔らかな優しい声がそっくりだった。だけど僕は、彼女の名前を知らない。

 地面では、アリ人間たちは皆立ち止まってこちらを見上げていた。そして、まるで神を崇めるかのようにきれいに整列し出したかと思えば、片膝をついてしゃがみ込んだ。彼らはもう、僕のことを追いかけてくるつもりはないようだった。


 僕と彼女はふたりで星空の下を飛んでいた。月は出ていなかったが、うっすらと明るかった。目が慣れてきたせいなのだろうか? それもあるかもしれないが、夜空に輝く星々の光が、僕が知るよりも強いように思った。そのとき僕はわかった。この宇宙はまもなく寿命を迎えようとしている。絶命間際のせみがより高く鳴くように、星々も宇宙の死を目前に最期の輝きを放っているのかもしれないと思った。

「あなたは、わたしが誰か知ってるの?」と名前も知らない女の人は僕に尋ねてきた。

 僕は首を横に振る。「知らない。だけど、どこかで会ったことがあるような気がする」

「それは夢の中?」と彼女は言った。

「いや、夢でもないし、現実でもない」

「わたし、知ってる。遺伝子の記憶がわたしたちに映像を見せているのよ」

「遺伝子の記憶?」

「そう。わたしたちの祖先が遺伝子に刻み込んだ記憶は、時として夢となって現れることがあるの。例えば、あなたが見た砂漠の無人駅の夢なんかは、その典型的な例だといえるわ」

「どうしてその夢のことを?」、僕は驚いて尋ねた。夢の話は今まで誰にも話したことはなかった。唯一、《青木ヶ原樹海》で自殺を試みる前にSNSに投稿したことを除いては――。

「わたしは、わたしの宇宙の中でもうひとりのあなたと会った」

「君の宇宙で?」と僕が言うと、彼女は静かにうなずいた。彼女はおそらく僕と同じで、自分のオリジナルが創り出した宇宙の中で誕生したオリジナルのコピーなのだ。僕がその宇宙を抜け出して《原点O》へとやってきたのと同じで、彼女もまた、何かの拍子にこちら側にやってきたのだ。

「君は、何のためにこちら側の宇宙にやってきたの?」と僕は訊いた。

「さっきも言ったように」と彼女は言うと、繋いでいた僕の右手を強く握った。「わたしは、あなたを助けに来たの。砂漠の無人駅の中で、ひとりで途方にくれているあなたを助ける夢を見た。最初は、ただの夢かと思っていたけど、ある人がわたしに教えてくれたの。夢は、単なる夢なんかではないって。あのときは理解できなかったけど、今ならわかる気がする。あの人は、あなたがここに来ることをわかっていて、わたしに夢を見せたんだって」

 彼女が言う〝あの人″というのが、《ローブの男》なのか、《左右対称の顔の女》なのかはわからない。もしくは両方なのかもしれない。僕と同じように、彼女はふたりに導かれてここにやってきたのかもしれない。きっとそうに違いない。

「ここは夢の中なのかな?」と僕は言った。

「わからない。でもたぶん、これは夢ではないとわたしは思う。夢なんかじゃない。でも、夢と同じように、想像していることが現実になる。怖いことを考えると本当に恐ろしいことが起こるし、楽しいことを想像したら、きっと楽しいことが起こる。なぜだかわからないけど、そういう力をわたしたちは持っているみたい」

 眼下にいるアリ人間の集団は、まるで巣に帰るかのように僕たちの進む方角とは逆方向に一斉に進んでいた。黒い集団がいなくなった後の砂漠は、空に輝く星のわずかな光を吸収し、反射する砂粒ひとつひとつが、まるでそれ自体がひとつの天体のように赤や青の光を放っていた。僕たちの想像力がアリ人間たちの行動までも制御したのだろうか?

 同じことを考えているかのように、彼女もまた地面を眺めていた。それから僕の方を向き、小さな口を動かした。

「今になって、やっと理解できた気がする。わたしが今まで苦しんできたのは、この瞬間のためだったんだって。現実だけでなく、夢の中でも正体不明の何かに追い詰められていて、それから逃れるために、わたしは夢を自在に操ることを学んだ。空を飛んで、追っ手から逃れられる術を身につけた。それはきっと、夢と同じ作用を持つ《原点O》であなたを助けるために、自ら課した試練だったと思うの」

 彼女の話を聞いていて、僕も同じようなことを考えていた。《ローブの男》が創り出した宇宙の中で彼のコピーとして生まれた僕は、彼と同じように宇宙に惹かれ、宇宙物理学者になることを目指した。自らの手によって、宇宙の起源を解き明かしたかった。その根本的な願いが、この世界から抜け出したいという願望に姿を変えたのだ。そして、実際に《原点O》へ行き、そこで等々力の手によってゼアーズになった。脳だけで生かされ、自らの脳の中で何度も宇宙を創造しては破壊していった。現実世界における時間感覚がどうなっているのかはわからないが、少なくとも僕の頭の中の世界においては、気が遠くなるほどの長い年月を過ごしてきた。そこで学んだのはまさに〝想像していることを現実にする″ための方法だったのかもしれない。

 デネブの塔が目前に迫っていた。僕と彼女は徐々に高度を下げ、塔の門の前で着地した。砂が音を立てて周囲に飛び散り、思わず目を覆った。空を飛んでいたのはほんの十数分の間だったのに、すごく久しぶりに地面の感触を味わったような気がした。これは夢ではなく現実だという確かな感覚がそこにあった。

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