砂丘の満月

インサイド・アウト 第21話 inside-out(7)

 闇の中。

 地上に向かって、僕たちの体は落下していく。重力は容赦なく体の加速度を増していく。苦しい。寒い。風圧で呼吸をするのもままならないし、ただでさえ冷たい空気が、落下による空気抵抗で体感温度を下げる。想像以上の圧で思うように手足を動かすことができない。麻衣の手を離してしまわないよう、ぎゅっと強く握りしめるが、彼女の手にはまるで力が入っていなかった。あまりの衝撃に気を失ってしまったのか?

 早く空を飛ばなければ、このまま地面に叩きつけられてしまう……。


 気がつくと、五感のすべてがシャットアウトされていた。何も見えないし、何も聞こえない。肌の感覚もない。先ほどまでの闇は、さらに色濃くなっている。

 ここはおそらく、僕の無意識の世界だ。どうやら、彼女だけでなく僕もまた、意識を失ってしまったらしい。

 そのとき――

「……よく、ここまで来たな」と誰かが言った。男か女かもわからない、中性的な声だ。声変わり前の少年のようだった。

「誰?」

「この声を聞いていると言うことは、あのふたりの導きがうまくいったということだろう。だが、残念なことに、ふたりがその事実を確認することはできない。それはとても悲しむべきことだ」

 僕の声など聞こえていないかのように、声の主は淡々と話を続ける。 

「君たちも見ただろう。この宇宙の地球はすでに枯れ果て、滅びかけている。いや、すでに滅んでいるといっても過言ではないだろう。文字取り不毛の大地と化してしまった地球では、人間が生きるどころか、いかなる生命体も、もはや生き続けることはできない。地球だけではない。この宇宙に存在する星はすべて枯れ果て、確実な死に向かって時の流れに身を任せてきた。そして今日、この宇宙は終わりを迎えることになる。数え切れないほどの年月を超えて、ようやくその活動に終止符を打とうとしている。君たちはちょうどそんなときにこちら側にやってきた。もう気がついているだろうが、これは偶然でもあり、必然でもある。一見、すべてが無意味と思える人生の出来事の一つ一つが、我々の導きと共鳴を起こし、君たちをここへと辿り着かせたのだ」

 横を見ると、いつのまにか麻衣がそこに立っていた。僕の左手を握り、まっすぐな瞳で前方を見つめている。彼女の見つめる先には何もない。あるのは、深い闇だけだ。周囲を覆う暗闇よりも、さらにもう一段階、深い闇。

 その闇の向こう側から、声が語りかけてくる。

「我々ゼアーズは、肉体を捨て、脳だけの姿になった。それにより、この世界に無限に存在し得る宇宙の創造と破壊を制御できるようになった。すでに存在する宇宙をコピー元とし、似たような宇宙を創ることもできる。既存のものとはまったく異なる宇宙を創ることもできる。そして、それぞれの宇宙の中で、新たな生命体として生を体験することもできる。日並響……君が実際に体験したようにね」

 僕はゼアーズに訊いた。「この宇宙が滅んだら、僕たちの住んでいた宇宙はどうなるの?」

「このままでは、我々が創り出した宇宙もまた、《原点O》とともに死を迎えてしまうことになるだろう。そうなれば当然、君たちの宇宙も消滅することになり、君たちの本当の肉体も、その精神も、一瞬のうちに無に帰ることになる。これから自分が死ぬということを一時たりとも自覚することなく、消滅することになるだろう。《原点O》が死ぬということは、すなわちこの世界に存在するいくつもの宇宙が死を迎えるということを意味している」

「わたしたちはもう、黙って死を迎えるしかないの?」と麻衣が言った。僕の手を握る力が、少しだけ強くなる。

「一つだけ、君たちが生き残る方法はある。そして、君たちはすでにその方法を知っている。だがその代償として、こちら側の宇宙に存在している君たちの肉体と精神は消滅してしまうだろう。しかし、恐れてはならない。少しでも躊躇してしまえば、君たち自身だけでなく、我々の創り出した宇宙もろとも消滅してしまうだろう」

 声の主が話していることの意味を、僕は理解した。

「さあ、意識を取り戻すのだ。《原点O》の入り口に戻り、そこで強く願え。もうそれほど、時間は残されていない」

「ちょっと待って」麻衣は声を遮った。「あの人たちは、どこに消えてしまったの? わたしたちを助けてくれた、あの人たちは……」

 突然僕たちの前に姿を現し、等々力とアリ人間とともに消えていった《ローブの男》と《左右対称の顔の女》。あの二人がどこへ行ってしまったのか、僕も疑問に思っていた。

「それを知ったところで、君たちには何も意味がないことだ」感情のこもっていない声が響き渡る。「だけど、知っておくのも悪くはないだろう。だが、我々も確かなことは知らない。一つだけ確かなのは、君たちと、君たちの宇宙を救うために、あのふたりは自ら犠牲になったということだけだ。不滅の肉体を持つ等々力を完全に抹殺するのは容易ではないからね」

「なぜあの人たちまで一緒に消えなきゃならないの?」

「おそらく、彼らなりの責任の取り方なのだろう」

「責任なんて、あのふたりにはこれっぽっちもないでしょう?」

 麻衣は訴えかけるように涙を流している。

 あのふたりに責任がないかどうか、僕にはわからない。悪用されるとわかっていて、等々力に研究成果を提供し続けた《ローブの男》が、百パーセント悪くないとは断言できない。僕には彼らの行動の是非を問う権利はない。

「そろそろ、戻ろう」と僕は言った。

「でも……」

「あのふたりが選択したことなんだ。たぶん、きっとこうなることをわかっていて、僕たちを創り出したんだと思う。僕たちは、あのふたりの分身なんだよ」

「……そう、なのかな?」

「だから僕たちは、これからのことに目を向けるべきだと思うんだ」

 麻衣はしばらく納得がいかない様子だったが、吹っ切れたように満面の笑みを浮かべて言った。

「それなら、戻らなきゃだね、わたしたちの宇宙に」

「うん」

 僕が返事をした途端、急に、魂の抜けるような感覚がした。次第に、遠くの方からごうごうと激しい音が聞こえてくる。肌には冷たい空気の感覚が蘇り、あたりを包み込んでいる深い闇からは、わずかな明かりが漏れてきていた。


 はっと息を飲む。

 僕の体は、いまも空から地面に向かった落ちている最中だった。

 慌てて左手の方を見ると、麻衣は目を大きく見開いて、地上の方をただじっと見つめていた。まるで以前にも同じ経験をしたことがあるかのように、落ち着き払っている。こんな状況にも関わらず、僕はその横顔に思わず見惚れていた。

 視線に気がついたのか、彼女は振り向いた。どんな表情をしているのか、よく見えなかった。笑っているようにも見えたし、泣いているようにも見えた。彼女は手を引いて、僕の体をぐっと引き寄せる。

「ほら、もう夜明けだよ」

 僕の耳元で、彼女は囁いた。前を向くと、地平線の遙か彼方がわずかに青みがかっているのが見えた。紺青色の彩りが、地平線の向こうからこちら側にぐんぐん迫ってきていて、彼女の輪郭をさらに浮き立たせていく。

「一緒に帰ろう」

 そう言って、僕と手をつないだまま、彼女は両腕を翼のように大きく広げた。

 僕もまた、大空を飛ぶ姿をイメージする。白鳥のように優雅に風に乗る姿を、できるだけ具体的に思い描いた。細い腕に生えたふかふかの羽毛が風をつかみ、揚力を作り出すイメージを。

 ふわり、という確かな感覚とともに落下速度が緩和され、地面まであと二、三メートルというところで、僕たちの体は宙にとどまった。

 砂漠は揺れていた。地面を覆う砂粒が振動で舞い、煙のように砂埃を立てている。すぐ後ろでは、デネブの塔がいまにも倒れそうなほど傾いていた。

 麻衣の手を強く握って、僕は直感的に、日の出の方角に向かって飛び立った。砂埃に飲み込まれそうだった体はすれすれのところで上昇し、一気に高度を増していく。空はさきほどよりもずいぶんと青みが増していた。夜が明けたばかりだというのに、暖かい日差しが麻衣の頬を赤く染めた。

 後ろから、重々しい轟音が響き渡る。衝撃は追い風となり、僕たちの背中を後押しする。なぜだか急に耳鳴りが始まり、妙な息苦しさを感じる。

 呼吸を整えながら、考える。確かめるまでもない。デネブの塔が崩れたのだ。天を突き抜けるほどの巨大な塔は、天地を揺るがす大地震によってあっけなく崩れ去った。人類の叡智の象徴も、自然の前では赤子も同然だったのだ。

 あの水槽の中で、《ローブの男》と《左右対称の顔の女》の脳細胞が混ざり合い、一体になっている姿を想像した。あのふたりはおそらく、僕と同じように、精神を《原点O》に転送し、新たな肉体を創り出すことに成功したのだろう。そして、同じ力を使って、等々力とアリ人間たちをどこか遠くの時空へと飛ばした。それから彼らがどうなったのかは知らないけれど、彼らの元となる脳細胞が入っていた水槽が壊れてしまったら、そう長くは精神を維持できないだろう。そして、それはおそらく僕自身の精神に対しても同じことがいえる。さきほどの耳鳴りは、この精神が死に向かっている前兆なのだ。

 でも、僕のことなんて、どうだっていい。

 あのふたり……あのふたりだけは、せめて最後くらい、寄り添っていてほしい。長い苦しみから解放されるときくらい、どんな形であれ、最愛の人と一緒にいてほしい。

 僕の頭の中に、ふたりの姿がひとつに重なる姿が映し出された。ただの妄想かもしれない。願望かもしれない。それでも僕の網膜には、ふたりが笑顔で再会し、抱き合っている姿が鮮明に映し出されていた。

「大丈夫?」

 横から麻衣が心配そうにのぞき込む。

 僕は思う。

 もしも、僕と彼女が同じ宇宙で生まれ育ったのだとしたら、再び〝向こう側〟で会うことができたかもしれないのに、と。

 彼女がいま、何を考えているのかは僕にはわからない。だけど、確かに聞いた気がする。僕に聞こえるか聞こえないかくらいの声で、彼女が「そうね」とつぶやくのを。

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