インサイド・アウト 第7話 砂漠の無人駅(4)
自宅に向かう電車の中、明日からはじまる大型連休で浮き足立つ人々を横目に、僕はSNSに現在の心境を投稿した。
形式上は休みを取るが、実際には家に篭って不眠不休で仕事をこなさなければならない憂鬱な気持ちを吐き出すことで、すっきりした気持ちで明日を迎えられるだろうと考えた。だが僕は書いている途中で、吐き出すのをやめた。ここに書いたところで誰かが読んでいるわけでもないし、単なる負け犬の遠吠えのようにも見える。一人の大人として情けない。
愚痴もそこそこに切り上げ、SNSの投稿ボタンを押した。
はじめに《砂漠の夢》を見たことについて投稿して以来、僕はこのようにして何度かその時々の心境をSNSに投稿した。暗い気持ちを外に吐き出すことで、心のバランスを取ることができるような気がしたからだ。でも実際は、吐いても吐いても止まらなかった。書き出していたらきりがなかった。バランスを取るどころか、ますます心の闇が大きくなっていくように感じた。だから僕は言いたいことを全て書くのではなく、ほどほどのところであきらめるのだった。
電車を降り、自宅までの道のりを歩いていると、スマートフォンに着信があった。母からだった。
「もしもし」
「元気にしでるが?」、東北訛りの低く濁った声で母は言った。
「うん」
「仕事はどうだ? うまぐいっでるが?」
「うん」
「ご飯はちゃんど食っでるが?」
「うん」
いつもの定型的なやりとりだったが、今の僕には正直堪えた。お世辞にも元気と言える状態ではないし、仕事はうまくいっていない。食事の方も、最近はほとんど喉を通っていなかった。
昔、登校拒否をしていた時期があったので、このように母はときどき僕のことを心配して電話をよこす。その度に僕は余計なお世話だと思い、すぐに話を切り上げて電話を切る。だけど今回は、まるでどこかで様子を見られているような気がしてならなかった。仕事がうまくいっていないことを見透かされている気がして、電話をしている最中も声がうわずるのが自分でもわかった。
そのあとも似たような簡単な会話を交わして、僕たちは電話を切った。
母からは、それほど頻繁に電話が来るわけではない。一年に、一度か二度程度。こちらから電話することはほとんどない。それでも、これだけ話せば十分だった。もともと母は口数が多い方ではないし、僕もこれといって話題があるわけでもない。強いて言えば、亡くなった姉の娘——姪の夏希の様子が気になるくらいだった。でも、先日様子を尋ねたときは、製菓の専門学校を卒業して地元の洋菓子屋さんに勤め始めたと聞いていた。だから今はそれほど心配していない。
それよりも、今は自分のことだ。
今日はこれから自宅に帰って夕飯を済ませた後、明日からの十二連休で処理すべき仕事の計画を立てなければならない。そのあとは鋭気を養うために、今日はぐっすり眠る。
そのことだけを考え、僕は自宅マンションに向かった。
翌朝起きると、全身の血液に鉛が混ざったかのような体のだるさを感じた。結局、よく眠れなかった。夢の中にも会社や取引先の連中が現れたからだ。彼らは仕事の成果だけでなく、僕の能力や人間性に対して否定的な言葉を吐き捨て、集団無視をした。まるで学校のいじめだった。相手にしてはいけないとわかっていても、胸の中に大きなわだかまりを感じずにはいられなかった。
多分、実際にはほとんど眠れていない。横になって意識を失ってはいたが、それは睡眠と呼べるものなどではなく、夢と幻覚の間を行き来する虚ろな時間を過ごしていたにすぎなかった。
起き上がった後もしばらくやる気は起きなかった。燃料の切れた自動車のように、自ら動き出すことができないでいた。ただ時間だけが過ぎていった。
大型連休の初日は、結局、何もせずベッドの上に転がるだけで一日が終わった。予定していた仕事は全く進まなかった。すでに一日分の進捗遅れが発生。どんなに寝ても気力は少しも復活しなかったが、一刻も早く元気になって仕事を処理しなければならないという焦燥感だけがどんどん増していった。
寝室のベッドに横になりながら、脇にあるLED時計を見る。
——PM8:55 4/25(Sat)
今日もそろそろ終わりだ。
「時」と「分」の間にあるコロンの表示が一秒ごとに点滅するのを見て、焦りと危機感ばかりが頭の中で増加する。このようなときに限って、時間は無情に過ぎ去っていった。この十二連休は、一日たりとも無駄にはできないというのに。
ここでふと、ちょっとしたアイデアが頭の中に浮かぶ。
もし僕がこのまま連休中に倒れて休み明けに仕事に行かなかったら、みんなどのような反応をするのだろうか。その皺寄せが来ない人はきっと何とも思わないが、代わりに対処しなければならなくなった人は迷惑に思うだろう。
だけどもし僕が死んでしまったら?
そうしたら一体、みんなどんな心情で連休明けを迎えるのだろうか?
想像してみたら、なかなかに愉快だった。そのように考えると、今ごろ有意義な長期休暇を過ごしている連中の姿を想像しても、全く苦痛に思わなくなっていた。
その翌日は、少しだけ体調が良くなっていた。気分もすこぶる良い。
相変わらず眠りは浅いままだったが、働けないほどではなかった。肉体労働ならまだしも、頭と指先さえ動けば仕事を進めることができる。食事は出前を頼み、トイレに行っているとき以外は常にノートパソコンと向かい合って過ごした。
スマートウォッチに搭載されているストップウォッチ機能を活用して、短く時間を切って作業を進めていった。思っていたよりも順調だった。やはり、寝っ転がって悶々と考えているよりも、このようにして実際に手を動かした方が気持ちが楽になるというものだ。
乗り越えられない困難はない。そういえば誰かが言っていた。神は克服可能な試練しか与えないと。無神論者だったが、このときばかりは神の存在を信じてみようと思った。
自分はできる。自分ならきっとこの難局を乗り越えることができる。そう唱えながら、気持ちを奮い起こし、とにかく予定していた作業をこなすことに集中した。
その翌日も、そのまた翌日も、僕はこのようにポジティブ思考で仕事に取り組んだ。早朝から仕事にとりかかり、夜の零時まで作業を続けた。その間ずっと自宅マンションにこもり、相変わらず食事は店屋物で済ませ、できる限り余計な雑務を排除した。休みだからといって生活リズムを乱すことはしなかった。
集中力に関しては自信があった。休憩を挟む必要性は感じなかった。それでも途中で眠気に襲われることがあった。そのようなときはブラックコーヒーと栄養ドリンクを飲んで、その場をやり過ごす。それでもどうしても眠気が覚めないときは、この仕事を片付けられなかった場合にどのような結果が待っているかをできる限り具体的に想像して、気持ちを奮い起こした。
マイナス思考になってはいけない。不安になってはいけない。自分はこの山を乗り越えられる。そう頭の中で繰り返しながら仕事をした。だが、そのように考えれば考えるほど、つまらない間違いやミスを生んだ。あるいは、ミスをミスと認識しながらも、それがミスではないと勝手に自分に言い聞かせ、後になってそれが原因でそれまでの成果が台無しになることもあった。
詰めの甘さは、システム設計者の仕事には致命的な影響を与える。些細なロジックの破綻が、次々の別の問題を引き起こし、また一から検討し直さなければならなくなることは珍しくない。
だがそうはわかっていても、僕は次々と根本的な間違いを犯していった。おかしいのは自分の頭ではなく、この世界の大多数の人たちの方なのだと考えるようになっていった。会社の上司や取引先の人間は間違った多数派で、自分は正しい少数派の方の人間。そのような歪んだ認識が、仕事において「客観性」という重要な観点を失う結果になっていた。
大型連休の六日目に入り、超大型連休も折り返しに差し掛かった。
仕事の進み具合は悪くはなかったが、それでもまだ重要課題はたくさん残っていた。
しかしこの日は、作業に着手してすぐに強烈な眠気に襲われた。インスタントコーヒーを飲んでも眠気は消えなかった。ノートパソコンのモニターを見ただけでまぶたが勝手に閉じていく。久しぶりにリビングの窓を開けた。外の生ぬるい空気が頬を撫でる。
眠気と格闘しているうちに、いつの間にか昼を過ぎていた。
なかなかゴールの見えない作業に、僕は途方に暮れた。そして全身を無力感が覆った。不安と焦燥感に押しつぶされそうになる。
不安になってはいけない。深く考えてはいけない。
そうやって邪念を振り払い、仕事をやり残したまま連休を終えてしまったときのことを想像した。だがそのやり方では、もはや気分を高揚させることはできなくなっていた。恐怖によって自分の感情を無理矢理盛り上げる方法は、もう通用しなかった。
日が沈むと同時に、外の空気と共に僕の気持ちも冷め始めていた。連休前日の熱い気持ちがまるで嘘だったかのように、自分が何をしたいのか、よくわからなくなっていた。
世の中がゴールデンウィークで舞い上がっている中、誰からも対価をもらうでもなく、このように一人で頑張って仕事をこなして、僕は一体何がしたいのだろうか。
責任感? 義務感?
いや、結局のところ、ただ単に他人に嫌われたくないだけなのだ。仕事が「できない」と思われたくない。責められたくない。後ろ指を差されたくない。そこには積極的な姿勢はない。
製品を予定通り出荷できるようにするため。プロジェクトを成功に導くため。会社に売上と利益をもたらすため。こんな風に考えたことはない。建前ではこのようなことを言っていても、内心どうでもよいと思っている。
もう一度考えた。
僕は、一体何をしているのだろうか。
開けた窓から聞こえる電車の走行音が、部屋の彩りに必要以上の現実味を添え、そして消えた。
大型連休の七日目、八日目は、ただひたすら眠った。これまでとは違って仕事の夢や幻想に邪魔されることなく、ぐっすり眠ることができた。
ここ一ヶ月の睡眠不足を一気に解消するかのように、ここぞとばかりに僕は死人のように眠り続けた。食事や水分もろくに摂らず、そのまま消えてしまうかのように眠り続けた。長い眠りからふと目覚めると、仕事をせずに寝ていることに対する罪悪感や劣等感が蘇った。その度にすぐに目を閉じてベッドに身を任せ、再び眠りへと落ちるのだった。
連休明けはこれまで以上に大変な状況になることは目に見えていた。顧客から詰め寄られるだけでなく、利益は赤字になり、会社の上層部に対する説明や上司の不毛な説教でさらに時間が奪われることになる。下手をすると賠償問題にまで発展するかもしれない。だけど今の僕には、もはやそのようなこともどうだってよいと思えていた。
このまま消えてしまえば、誰も僕を責めたりしない。顧客から無茶な要求を受けて調整に追われることもなくなるし、上司のありがたい話を聞くこともない。賠償問題だって心配いらない。
そうすれば全てから解放される。それに、僕のような人間が仕事を抱え込んで他人に迷惑をかけることもなくなるのだ。いなくなった方が会社のためにもなる。僕以外の他の誰かがリーダーになった方が、チームメンバーのみんなもきっと喜ぶだろう。
数日前は感じていた万能感にも近い自己効力感は、このときすでに空っぽになっていた。
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