中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第10話 仕組まれた邂逅(4)

 夢の中で——眠りに落ちた時点でほぼ予想できていたことではあったが——わたしは何者かに追われていた。

 相変わらず、誰に追いかけられているのかはわからなかった。知りたくもなかった。だけどその本当の正体が何であるのかは、うすうす勘付いていた。

 灰色の街の中を、全速力で走り抜けた。それでもすぐ後ろからは、〝黒い影〟の気配をひしひしと感じる。いつも通りビルの中に逃げ込み、非常階段をらせん状に駆け上る。屋上に着くと、少しも躊躇することなく、両腕を翼のように広げて、羽ばたくように宙に舞った。

 それも束の間、わたしは真っ逆さまに頭から落ちていく。悲鳴をあげて落下しながらも、こうなることをどこかで望んでいる自分がいる。死に迫るまでの刹那を快楽に感じる自分。あと少しだけ、この官能的な境地に浸っていたいと感じていたところで、無残にも地面に強く打ち付けられる。脳への強い衝撃が、視界を真紅に染める。体は動かない。声も出ない。だけど、痛みは一切感じない。

 アスファルトの上でうずくまるわたしの前に、例の《うぐいす色のローブの男》がやってきた。その男は、わたしの近くにしゃがみ込み、ひび割れた手鏡を目の前に差し出してきた。そこに映っていたのは、頭部だけになった自分の姿だった。だけど最初に見た時より、ショックは少なかった。首だけになった自分の変わり果てた姿を見るのは、これで三度目だ。わたしはその姿を素直に受け入れ、男の目をじっと見た。男の姿を途中で見失うことがないように。

「どうやら無事に彼と会えたみたいだね」とローブの男は言った。その口の中に、歯は一本も残っていない。その代わりに、歯が生えていたと思われる場所には、凝固した血がゼリー状になって生々しく残っていた。

〈あなたは誰?〉と、声にならない声で、わたしは言った。〈あの《青木ヶ原樹海》の写真を送ったのは、あなたなのね?〉

 わたしの問いに、男は黙って頷く。

〈あなたは一体誰なの? どうしてわたしを選んだの?〉

「私はエス……」

〈エスって、Sさんのこと?〉とわたしは訊いた。

 男は静かに頷く。「そう……。でも、私は彼であると同時に、彼ではない」

 言っている意味はわからない。でも、その浮浪者のような容貌の中に、どことなくSの雰囲気と似たものを感じ取った。痩けた頬と、力はないが強い意志を持った黒い瞳。見れば見るほど、男はSに酷似していた。

〈どうしてわたしを選んだの?〉

「君に、《こちら側》に来て欲しかったからさ」、男は歯のない顔で笑った。「そのためには、彼の近くに来てもらう必要があった。私はね、彼の命を救うためなどではなく、君を私の力の及ぶ所に呼び寄せるために、彼を利用しただけなんだよ」

 わたしをSのもとへと導いた《誰かさん》は、このローブの男だった。この男は彼であり、彼ではない。そして、彼を助けるためではなく、わたしを呼び寄せることが目的だと男は言った。何が何だかわからないことだらけだ。それでも、どこかに見えない筋が通っているようにも思えた。話の一つ一つが、突拍子もないことのようで、一本の大きな流れに従っている。幾つもの分流が、元を辿ると一つの本流へとつながっているように。そしてわたしは確実に、その河の上流へと近づいている。

 より真実に近づくために、わたしは男に質問した。

〈だけどそれは、〝わたしでなければならないこと〟の理由にはならないと思います。もう一度訊きます。どうしてわたしじゃなきゃいけなかったの?〉

「どうしても知りたいかい?」

〈知りたい〉、わたしは男の目を見て訴えた。

「それなら、私から一つ、アドバイスをあげよう」

〈なに?〉

「君はこのあと、夢の続きを見ることになる。前に見たのと同じ、森の奥深く、広い岩の上で、君は目覚めるだろう。もちろん、目覚めると言っても〝夢の中で〟目覚めるという意味だけどね。そこで君は〝光〟を見る。いかにも君に救済の手を差し伸べるかのように、一筋の光が現れるだろう。だけどね、その光に惑わされてはいけない。その光は〝終わり〟を意味する。全ての終わり。夢だけではない。現実世界での終わりも意味しているんだよ。
 光の中に希望はない。そこで待っているのは盲目であり、絶望なんだ。そのことをどうか肝に銘じておくように——」

 そう言い残し、男は立ち去ろうとした。

〈待って。あと一つだけ、教えて〉

 男は背を向けたまま立ち止まる。

〈あの写真を見て、わたしが実際に樹海に行くことを、どうしてあなたはわかったの?〉

 男は振り返らずに言った。

「それはね、私は、君のことを誰よりもよく知っているからだよ。君自身が知るよりも、知り過ぎている。広く、そして深く……」

 そう言うと、男はいつのまにか跡形もなく消えていた。

 同時に目の前が暗くなっていく——。


 真っ暗闇の中、誰かの話し声が聴こえる。人数は二人。男と女。

 一人はSだった。もう一人は聞き慣れない声。だけど妙に心に引っかかるものがある声。聞いていて苛立つ声。その声はわたし自身のものだった。

 Sは低い声で言った。「夢は、僕たちにとって重大な意味を持つ。何か重大なことを示唆していることがある。だから、単なる夢だからと軽んじて考えてはいけない。注意深く観察し、よく分析しなければならない」

「そういえば、前も同じこと言ってたよね」とわたしの声が言う。

「夢には力がある。夢の中に現れた未知の光景は、予知夢などではなく、脳が作り出す高精度なシミュレーションだったり、祖先が遺伝子に焼き付けた過去の記憶である可能性が考えられる」

「あのね、わたしはいつも、何かに追いかけられる夢を見るんだ」

「何かに追われる夢というのは、決して珍しいものではないよ」

「そうかもしれないけど、聞いて。わたしは何かに追われて、逃げるようにビルに登るんだけど、いつもそこから飛び降りて死んじゃうんだ」

「それは君の記憶? それとも祖先の記憶?」

「間違いなく、わたし自身の記憶だと思う」

「そうなんだ……」

「そう」

「実は、僕にも未だに忘れられない怖い夢がある」

「砂漠の夢のこと?」

「うん。だけど僕の場合は、自分自身の記憶ではない。だって僕は、砂漠になんて行ったことはないし、見たこともなかったから。少なくともその夢を見た四歳の頃は……」

「本当に小さい頃に見たのね……」

「子供の頃に見る夢としては、かなり残酷な夢だったよ」

「どんな夢だったか、もう一度説明してもらえる?」

「うまく話せるかどうかわからないけど——」、Sの咳払いする声が聞こえる。「父と一緒に、砂漠の中にある小さな無人駅にいるんだ。父と二人で、その駅の中にあるベンチに座って、何も話さずに何かを待っている。だけど何を待っているのかは、わからなかった」

「なんだか怖い」

「で、普段はタバコを吸わない父が、なぜかタバコを吸い始めたんだよ。それから吸い殻をコンクリートの地面に投げ捨てて、足で踏み潰そうとしたら、コンクリートの床に空いていた小さな穴に、突然吸い込まれちゃったんだ」

「それで?」とわたしの声は息を荒げて尋ねた。

 Sも少し興奮しているようだった。「その穴の中を覗くと、父が僕に助けを求めている……ように見えた」

「ように見えた?」

「声が聞こえなかったんだよ。まるで音のないテレビのように、父の声は全く耳に入って来なかった。だけどその顔は必死だった。怒るような、悲しむような、何とも言えない複雑な顔をして、僕に何かを言っていた」

「それで、お父さんは助かったの?」

「わからない。父が穴の中に吸い込まれてしまった後、ボロ雑巾のような服を着た男がやって来て、穴の中を隈なく探してくれた。だけど、どうにもできなかったみたいで、次に僕がその穴の中を覗いたときには、父の姿はどこにも見当たらなかった」

「それを見て、悲しかった?」

「それがね、不思議とそんなに悲しくなかった。だって、僕の父はタバコを吸わないからね。どこかで別人のような感覚があった。だけど、穴に吸い込まれたあとの怒ったり悲しんだりする様子は、僕の父親にそっくりだった。現実世界で僕のことを叱りつける父に、とてもよく似ていた。もしかすると父は、僕たち家族のいないところでタバコを吸っていたのかもしれないし、他にも、僕の知らない一面を幾つも持っていたのかもしれない」

 わたしの声は、何も言わなかった。

「怖かった」とSは言った。「でも一番怖かったのはそこじゃない。穴の中に父の姿がないか隈なく探したあと、その穴から目を離して外を見ると、アリの顔を持った未知の生物たちに取り囲まれていたんだ。ここで僕は死ぬんだと思った。死を覚悟する瞬間とはこういう感じなのかと、四歳ながら僕ははっきりと認識したよ。

 死期を悟った瞬間、僕の意識は肉体から離れていった。まるで体から脳だけが抜けたかのように、僕は自分の姿を上から眺めていた。一気に距離が離れ、やがて砂漠の無人駅を取り囲むアリの黒い集団が見えた。

 ああ、僕は死んだのだ、とそのとき思った。そして大きな耳鳴りと共に、僕は目覚めた」

 しばらく二人は何も言わなかった。電波の途切れた携帯電話のように、不自然な静寂に包まれる。

 静寂を破ったのは、わたしの声だった。

「できることなら、その時のSさんの夢の中に入って、助けてあげたい」

「嬉しいけど、どうやって助けるつもりなの?」

「わからない。だけど、そんな怖い場所で怯える子供を見過ごすことはできない」

 たかが夢の話なのに、わたしの声は真剣にSの話を受け止めていた。

「ありがとう。それなら、次に僕がその夢を見たとき、助けに来てくれる?」

「うん。約束する」

「約束だよ」

 二人の声は、ここで再び途切れた。

 それから耳鳴りとともに、意識が浮上していった。


 目が覚めると、わたしはうつ伏せで倒れていた。ベッドのように大きく、深緑の厚い苔で覆われた溶岩石の上で。見覚えのある岩の形、平べったさ、苔の香り。それらと同じものを青木ヶ原樹海で見たのは、まだ記憶に新しい。

 その厚い苔を見て、樹海のホテルの床に敷き詰められた薄っぺらい赤い絨毯を思い出した。

 Sは今頃、あのカビ臭いホテルのベッドの中で、眠りについているのだろうか。そして、わたしと同じように、夢の中を彷徨っているのだろうか。

 わたしは夢から覚めた。しかし、まだ夢の中にいる。

 〝夢の中の夢〟で聴いた二人の会話は、自分の脳が作り出した幻聴にしては、やけに生々しく、耳に残っていた。〝裏の裏は表〟なのと同じように、〝夢の中の夢〟は、実は現実なのかもしれないと思った。しかし——。

「できることなら、その時のSさんの夢の中に入って、助けてあげたい」と言っていたわたしの声は、一体どうやって助けに行こうと考えていたのだろうか?

 どこからともなく、夜虫と梟の声が聞こえる。だけど空は、ほんのりと明るい。

 繁る木の葉の隙間から、限りなく真円に近い月が、夜の大海原を照らすかのように樹海の森に光を注いでいた。そして、その月光よりも遥かに強い光が、前方から救いの手のように差し伸べられていた。その眩しすぎる光に、目がくらみそうになる。

 ローブの男が言っていたことを思い出した。

 光に騙されてはいけない。一見、何も悪意のなさそうに見える光は、それこそが絶望を招く存在なのだ。光があるから影がある。つまり光の中にこそ、打ち消すことのできない闇があるのだ。ということは、その逆は——。

 こんな当たり前のことに、どうして今まで気づかなかったのだろうか。

 光はますます強くなっていった。その光に、背を向けて立つ。森は暗い。だけど、後ろから光が照らしてくれる。そこには自分自身の影も見える。

 夢の続きは、この闇の先にこそ待ち構えている。そんな気がした。幼い頃から見続けた夢は、この先に進むための、ただのプロローグに過ぎなかったのかもしれない。

 煌めく光を背に、森の奥で息を潜める漆黒の闇に向かって、わたしは一歩踏み出した。


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