中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第12話 夢の終わりに(1)

 月明かりを頼りに闇の中を歩いていると、後ろから何者かの足音が聞こえてきた。

 その音は少しずつ、だが確実に、わたしの方に近づいてきている。音の間隔と重さから、足音の正体は獣ではなく人間のような二足歩行生物であることを、わたしの本能が告げていた。

 背後から枝の折れる音が響き渡り、思わず後ろを振り返った。しかし、人影のようなものは見当たらない。息を飲み、再び暗闇の中を歩き始めた。

 森の中は黒い霧で覆われていたが、自分のいる場所だけはほのかに明るかった。空に浮かぶ真円の月が、その光をわずかに分け与えてくれているかのようだった。例の足音は、先ほどよりもさらに音が大きくなっていた。すぐ後ろまで迫ってきているのは間違いなかった。

 ——このままでは確実に追いつかれる。

 次の瞬間、わたしは走り出していた。漆黒の闇に覆われ、一寸先の様子もわからない闇の森の中を全力で駆け抜けた。走れば走るほど、黒い霧はさらに濃くなっていく。

 そのときわたしはふと思い出した。これは自分の〝夢の中〟だということに。夢の中なのだから、自分の都合の良いように事実を歪めることができるはずだ。かつて夢の中で自由を満喫できていたときのように、縦横無尽に空を飛ぶことだって可能なはずである。

 目一杯走りながら、わたしは両腕を翼のように広げた。それから鳥たちが〝そうする〟ように、両腕を激しく上下に運動させた。腕は虚しく空気を切った。しかしやがて体は宙に浮き、次第に高度は上昇していった。

 夢の中では、何よりも自分の可能性を信じることが大切だった。根拠がなくても、まずは信じてみること。それが、筋書き通りに夢を書き換えるために必要なおまじないのようなものだった。幼い頃は、まだわずかに自分の可能性を信じることができていた。だから怖い夢を見ても、自由に空を飛んで逃げることができたのだった。

 下を見ると、いつのまにか森から遠く離れ、地面から百メートルほどの上空を飛んでいた。暗闇の森は、月の光に照らされて玉虫の羽根のように表情を変えながら、凪の海の波打ち際のように穏やかに揺れている。

 追っ手の気配は、もうどこからも感じなかった。

 空を見ると、弱々しく光る北極星があった。そこから少し離れたところに、はくちょう座の一等星《デネブ》と、こと座の一等星《ベガ》が力強く光り輝いている。あともう一つ、わし座の《アルタイル》が見えたなら『夏の大三角』が完成するのに……と、わたしは少し残念に思った。わし座が見えるのは時期的にまだ少し早かった。夢の中でも五月初旬の星空がリアルに再現されているのには、我ながら感心した。

 これからどうすればいいのだろうか。どこにも行く目的はないし、行く当てもない。しかし、またあの《何者か》に追われるのは嫌だった。

 この森から、できるだけ離れた方がいい。

 そう思ったわたしは、かつて船乗りが目印に使ったと言われる北極星ではなく、はくちょう座の一等星《デネブ》に向かって飛び始めた。それは半ば直感的な判断だった。

 東の地平線が、わずかに明るくなっている。

 まもなく朝がやってくるのだ。


 森は、いつまでも森だった。どこまで行っても、深緑の海が果てしなく続いた。

 だがやがて太陽が昇りきると、永遠に続くかと思われた樹海は唐突に終わりを告げ、今度は広大な砂漠が辺り一面に現れた。樹海が〝海〟だとすると、この砂漠はまるで〝砂浜〟だった。

 その〝砂浜〟も、それまでの樹海と同じくらい広かった。あるいはそれ以上かもしれない。地平線はどこまでも青と橙のコントラストが続き、互いに色を引き立てあっていた。

 乾いた下降気流で何度も落ちそうになりながらも、両腕を羽ばたかせて何とか高度を保った。照りつける太陽はまるで現実世界のように肌を焼いた。

 しかし、どんなに飛び続けても、その砂漠から抜けることはできなかった。


 夜になり、気温が一気に下がるのを感じた。暖かく乾いた気流は、重い冷気流へと変わり、体力をじわじわと奪っていく。夢の中でも、その感覚は鮮明だった。

 そろそろ体を休める場所を探さなければならない。そう考え始めたとき、大きな砂丘のふもとに、小さな三角屋根の建物がもの寂しそうに佇んでいるのが目に留まった。他に建物のようなものは見当たらない。ゆっくりと周囲を旋回し、高度を落としていく。上空から見たときには、まるでジオラマのようにちっぽけだった小屋は、近くで見てもやはり小さく頼りないことには変わりなかった。

 小屋は六畳ほどの広さで、出入り口が二つあった。片方が入口で、もう片方が出口なのかもしれない。まるで何かの待合室のような造りの小さな建造物は、どこかで見聞きしたことのあるような佇まいだった。月明かりの下でも、窓ガラスは砂埃で黄ばんでいる。

 中を覗くと、小屋の内装は、一辺に木製のベンチが備え付けられただけの簡単なものだった。よく目を凝らして見ると、そのベンチの片隅に、小さな人影のようなものが見えた。

 それは人間の子供だった。

 幼い子供が、うずくまって泣いていた。鼻をすすり、小鹿のように体を小刻みに肩を震わせながら。そのとき、黄ばんだガラス越しに、月明かりがその子の姿をそっと包み込んだ。

 短髪であることから、男の子だと思われた。年齢は三歳か四歳くらいだろう。こんなに小さな子が、なぜこのような場所で一人で泣いているのだろうか。この子の親は? あたりを見回したが、他に人影のようなものは見当たらなかった。

 驚かせてしまわないように、大きめの咳払いをしてから、男の子のもとに歩み寄った。すぐそばまで近づいたとき、男の子の震えが止まった。それから顔を上げ、わたしの方をしばらく見つめて言った。

「おかあさん?」

「ごめんね。わたしは、おかあさんではないの」

「……誰?」と男の子は首をかしげる。

「大丈夫。悪い人じゃないから安心して」

 男の子の警戒を解くためにできるだけ穏やかに話しかけたが、その言葉は警戒を解くためにはあまりにもお粗末なものだった。「怪しいものではありません」、そう言う不審者は世の中にごまんといる。適切な言葉は他にたくさんあるように思ったが、落ち着いて考える余裕はなかった。男の子が怯える姿を見るのはとても心が痛んだ。それを一刻も早く解消したかったのだ。相手はまだ乳離れしたばかりの子供……良くも悪くも他人を必要以上に疑うことはない年齢だ。わたしが危害を加える存在かどうかは、声のトーンで判断が付くだろう。

 男の子と同じ高さまで屈んで、月明かりで自分の顔を照らした。

「わたしが来たからもう大丈夫」と声をかけて、頭をそっと撫でた。それからもう一度男の子の目を見て言った。「君は独りなの? おかあさんやおとうさんはどこにいるのかな?」

「おかあさんはわからない。僕のことはあまり好きじゃないみたい。ここにはおとうさんと一緒に来たんだけど」

 そこまで言って男の子は口をつぐんだ。

「おとうさんはどこにいったの?」

「死んじゃった」、男の子はわたしが屈んでいる場所の足元を指差した。「たぶん、蜘蛛に食べられちゃったんだと思う」

 わたしは不意を突かれて後ろに飛び退いた。それから男の子が指差した場所を見た。そこには蜘蛛はいなかった。そこに見えるのは、風化したコンクリートの床だけだ。

 それから男の子の顔をもう一度よく見た。嘘を言っている風には見えない。わたしは再び、男の子が指差したあたりの地面をよく観察した。窓から差し込む月の光を頼りに、その場所をくまなく見ると、ところどころに指先が入るほどの小さな穴が空いているのがわかった。

 この穴の中に、蜘蛛は逃げ込んだのだろうか?

 そのような妄想を膨らませたとき、なぜこの光景に覚えがあるのか、その理由にようやく気がついた。

 砂漠の中にぽつんと佇む小さな建物、待合室のような空間、蜘蛛に捕らえられてしまった父親——この内容は、Sが見たという《砂漠の無人駅》の夢にそっくりだった。

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