インサイド・アウト 第7話 砂漠の無人駅(5)
——PM1:11 5/5(Tue)
ベッドの脇で少し気まずそうに、LED時計は音も立てずにコロンを点滅させている。
五月五日。十二日間もあった大型連休は、今日を含めてあと二日を残すのみとなっていた。昼過ぎまで眠っていたので厳密には残り一日半もないのだが、そんなことはもはやどうでもよかった。
その日、僕は久しぶりに外に出た。雲ひとつなく暖かい陽気で、風はやや強め。この鬱蒼とした気持ちを晴らそうとしてくれているのか、それとも久々の外出を嘲笑っているのかはわからないが、どちらにせよ外を歩くにはちょうど良い天気だった。
初夏の気候とはこんな感じだっただろうか、と久しぶりに日常的な事を考えながら、僕は〝ある場所〟に向かった。自宅マンションから歩いて三十分ほどかかる所にあるのだが、暑くも寒くもない過ごしやすい気温のおかげで、歩くのはそれほど苦にならない。
喫茶『ロジェ』へ行くのは、一ヶ月ぶりだった。
扉を開くと、コーヒーの苦い香りと聞き慣れたジャズの音色が僕を暖かく迎え入れた。
店内はほぼ満席だったが、まるで僕が来るのを前もってわかっていたかのように、カウンター席が一つだけ寂しそうに空いていた。吸い込まれるようにそこに座り、ホットサンドとアイスコーヒーのセットを注文した。
数日ぶりのちゃんとした食事を胃に流し込みながら、周囲の会話に耳を傾けた。皆、楽しそうに連休中の旅行の話やしばらく先の夏休みの計画の話で盛り上がっている。一人で来ている自分は場違いのようにも感じたが、それでも久しぶりの喫茶店の雰囲気は新鮮で心地が良かった。
ふと、カップルと二人組の女性客で埋まっている二名掛けのテーブル席を見て、前にこの店に来たときのことを考えた。
一ヶ月ほど前、二名掛けのテーブル席でのんびり本を読んでいたとき、左右対称の顔の女が突然向かい側の席に座って来た。彼女は、そのうち僕が絶望に陥ると予言した。まるで僕がこのような状況に陥るのを知っていたかのように。そしてその翌日、等々力という名の黒いベストを着た男は、僕に告げたのだった。彼女はこの宇宙の外側から来た存在であり、本来この世界にいるはずのない存在——イレギュラー分子なのだと。
これらの一連の出来事は、もう随分昔のことのように感じられた。だけど実際には、つい一ヶ月ほど前の話なのだ。仕事に追われる日々によって頭の隅に追いやられた記憶を、最初から順番に辿っていく。
左右対称の顔の女は言っていた。
「すでにこの世界に満足されたのなら、ちょうど一番満足感が得られている時にそっとこの世界から抜け出した方がいいのではないかと思い、あなたをお迎えに上がったのです」と。
そうだ。あの女の言っていた通り、僕はもう逃げてしまえばいいのだ。連休はもう今日と明日しか残っていない。どう考えても、残りの仕事をこの二日間で処理することは不可能なのだから。
頭の中には「逃げる」以外の選択肢は見つからなかった。とりあえず出社して、そこから再び挽回するという選択肢はもう存在していなかった。
どうしてこうなったのだろう。でもきっと、しばらく前から何かが少しずつおかしくなっていったのだ。自分の思考がもはや正常に働いていないだろうことは、前々から自分でも何となくわかっていた。
何かが僕の心臓を強く掴んだ。野ざらしにされ、鋭い爪を持つハゲワシに心臓を掴まれたかのような気分だった。しばらく経つと解放され、楽になったかと思うと再び強く握られる。
その正体は罪悪感だった。それと劣等感。他にも様々な感情が駆け巡ったが、それらを形容する適切な言葉を僕は持ち合わせていなかった。おそらく言葉で表現することができないから、このようにして身体の痛みとして現れているのだ。
そういえば、あの女はこうも言っていた。
「実はこれまでの人生は、すべてあなた自身が『選択した』ことだとしたらどうしますか? ……あなたが恵まれない境遇と考えている、生まれた環境、親、国、時代——そのどれもが、言葉通りすべてあなた自身で『選択した』ものなのです」
今なら、その言葉の意味がわかるような気がした。
自分をここまで追い込んだのは、上司でも顧客でもなく、他ならぬ自分自身だったのだ。助けが得られないとわかるとすぐにあきらめ、自分一人で多くを抱え、破綻し、自滅する。自分で退路を断っておきながら、前に進む勇気を出せずに後ずさりして崖から落ちていく。これらは全て、僕自身の選択による結果なのである。
女の声が頭の中で響き渡る。
「あなたが自らの意思によるものだと信じて疑っていないものは、自らが整えた条件により必然的に辿る道筋だったということです。そして申し上げたように、すでにあなたは選択してしまっているのです。そう遠くない将来、二度と抜け出すことができないと思うほどの大きな絶望に陥ることを——」
逃げ場を探すのは、簡単なことではなかった。
喫茶『ロジェ』を出た後、当てもなくふらふらと移動したが、東京の二十三区内は当然のことながらどこへ行っても人がいた。インターネットカフェに行っても、隣の部屋から誰かに見られているような気がして落ち着かなかった。公園に行っても、ピクニックを楽しむ家族や、ジョギングをする人たちが僕を嘲笑っているように見えた。人気の少ないガード下に行くと、浮浪者たちで溢れかえっていた。逃げ場所と呼ぶには、どの場所もあまりふさわしくないように思えた。
結局、どこへ行っても完全に逃げ失せることなどできないのかもしれない。
そう考えたとき、黒ベストの男が言っていたことが頭に思い浮かんだ。
「我々のやったことが何かと言いますと、要するに、世界中の至る所に網羅的な監視システムを導入したのです。役所や教育施設、交通機関などが管理する個人情報や、町や店の中にある監視カメラの映像、それからモバイル端末の通話記録から位置情報の収集に至るまで、それらの情報を入手できるシステムを構築し、我々の元へと集約されるようにしたのです」
彼の勤める『日本アウトベイディング』は、そのようにしてこの宇宙の外側からやってくる生命体の姿を捉えようとしていた。そして彼らは、その宇宙外生命体が僕に接触したことを嗅ぎつけ、情報を入手しようと近づいて来たのだ。
彼——黒ベストの男は、今頃どうしているのだろうか。左右対称の顔の女を捕まえ、イレギュラー分子からこの宇宙の侵略を食い止めることはできたのだろうか。
二人とも、あれから僕の目の前に姿を現していない。
あの女に会いたい気分になっていた。
《左右対称の顔の女》が本当にこの宇宙の外側から来た存在で、僕を向こう側に連れて行ってくれるのであれば、今なら喜んで付いて行く。その先に何があるのかわからなくても、誰かが手を引いてくれるのなら、全てを受け入れて新しい世界で生きていく決心があった。行くなら、今だ。
しかし、いつまで経ってもあの女は現れなかった。喫茶店にいるときも、インターネットカフェで一時間ばかり過ごしたときも、公園をうろついていたときも、ガード下でしばらくしゃがみ込んでいたときも、今こうして当てもなく彷徨っている間も、彼女は姿を見せなかった。
よくよく考えると当然のことではあった。いくら宇宙の外側から来た超越的な存在とはいえ、願っただけで会うことなど不可能なのだ。そんな都合の良い話は現実世界ではありえない。
あるいはまだ何か条件が足りていないのかもしれないと思った。まだ本当の絶望には陥っていないのかもしれない。あるいは、向こう側に行くために必要な《鍵》のようなものを手に入れていないのかもしれない。だけど、どちらにせよ僕に判断できることではない。
ポケットの中で部屋の鍵を鳴らしながら、僕は考えた。今の所持品は、この鍵と、スマートフォン、財布。それから腕につけているスマートウオッチ。たったこれだけだが、失踪するには十分だ。
気がつくと、巡り巡って喫茶『ロジェ』の前に戻ってきていた。そのまま人々の流れにしたがって、駅の方へと向かう。
駅に行くには、大きな橋を渡って河を越えなくてはならなかった。僕はその橋の上で立ち止まり、欄干の景色をしばらく眺めた。
河は、泥水に苔が生えたようなうぐいす色をしていた。水面は深く濁り、底は見えない。赤い夕焼けに照らされても、本来持ち合わせている淀みをますます際立たせるだけだった。
その淀んだ色を見て、僕はあの夢に出てきた《うぐいす色のローブの男》のことを考えずにはいられなかった。
一つも会話を交わさずに、父と共に座っていた《砂漠の無人駅》。穴の中に吸い込まれた父の体。それを霧のように覆う白い蜘蛛の巣。それから、急に現れたローブの男。その駅を取り囲む、アリの頭部を持つ謎の生物たち。
色の抜けた抹茶のような河とは対照的に、赤い列車とオレンジ色の列車が互いに示し合わせたかのように上下でクロスし、濁った河に人工的な彩りを添え、そして消えていった。
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