中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第5話 黒ベストの男(6)

 僕は耳を疑った。

「……僕が、イレギュラー分子と接触したと言うのですか?」

 黒ベストの男は黙って頷いた。それから手に持っていた写真をテーブルの上に置き、僕の目の前に差し出した。そこには僕と《左右対称の顔の女》が喫茶店で話している様子が写っていた。

「日並さん、昨日あなたが喫茶『ロジェ』でお話しされていたこの女性——彼女こそが我々の追い求めていた《イレギュラー分子》なのですよ」

 衝撃のあまり、僕はしばらく声の出し方がわからなくなった。途中までは自分には一切関係のない絵空事として話を聞いていたが、突然そこに自分が登場したことで僕は冷静さを失った。確かに、彼女が《この宇宙の外側》から来たと考えると、幾つもの点が線で繋がる気がした。僕のことを知り尽くしていたこと、『この世界から抜け出す』という表現を使っていたこと、そしてこの世のものとは思えない《完全な左右対称の顔》を持っているのも頷ける。それでも、なぜ彼女がよりによって僕を選択したのか。その理由だけはどうしてもわからなかった。

 男の鋭い視線を感じた。言葉だけでなく表情のわずかな変化も逃すまいと、獲物を見るような目でこちらを凝視しているのがサングラス越しでも伝わってきた。

 乾いた喉を潤そうと、僕はカップに残ったコーヒーを一気に飲み干した。それでも喉がかすれて、思うように声が出せない。

「……ですが、昨日電話でもお話ししたように、僕がこの人と会ったのはこれが初めてです。イレギュラー分子か何か知りませんが、そのような人に話しかけられるような心当たりは僕には一切ありません」

 この男は危険だ。そのように脳の扁桃体が信号を発しているのが自分でもわかった。鼓動は増し、背中は汗でシャツが張り付いている。

「……過去に、一度も?」

「はい」

「彼女は確か、日並さんにこう言っていたんですよね。『この世に十分満足しているのなら、このタイミングでこの世界から抜け出してはどうか?』と」

「ええ」、僕はかすれた喉から声を振り絞った。「でも、僕にはそんなことを言われる覚えは全くないですし、何かの悪質な勧誘かもしれないと考えていたので、終始、疑いの目を彼女に向けていました。そうしたら、その態度がよほどあからさまだったのか、彼女はすぐにあきらめて去っていきましたよ。僕と彼女は、ただそれだけの関係です」

「それでは、日並さんとしては再び彼女に会う気はないと」

「はい。電話でもお話ししたと思いますが、僕は彼女の連絡先を知りませんし、僕の連絡先を彼女に教えてもいません。仮に会おうと思っても、これでは会いようがないではありませんか」

 黒ベストは、僕が本当のことを話しているかどうか見定めているようだった。サングラスの奥からは変わらず強い眼光が放たれている。しばらく経ってから男はゆっくりと背もたれに身を任せ、深くため息をついた。

「どうやら嘘を言っているわけではなさそうですね」

 男はあきらめたように言い、湯気の出ていない紅茶をいかにも熱そうに口に含んだ。それから再び深いため息をすると、何やら考え込むように腕組みをして黙り込んでしまった。

 疑いは晴れたようだ。だが僕はどうしても男に確認しておかなければならないことがあった。

「ところで、あのおかしな手紙をうちに送りつけてきたのは、あなた方だったのですか?」

 あのおかしな手紙というのは、昨晩、僕の自宅マンションに送られてきた差出人不明の手紙のことだ。もし手紙の送り主の関係者であれば、これだけ伝えれば十分だろう。僕は男の反応を見た。

 黒ベストの男はしばらく関心がなさそうに考え事に耽っていたが、やがて思い直したかのように身を乗り出してきた。

「手紙……ですか?」

「はい」

「うちの会社が? ……いや、そんなものは送っていませんよ。どうしたのですか、急に」

 男はとぼけているような様子ではなかった。本当に何も知らないようだった。

「そうですか。あなた方でないのなら、別にいいのです」

 そう言って僕は話を終えたが、黒ベストは釈然としない様子だ。

 昨晩、僕の元に届いた一通の手紙。その中に書かれていた一文を、僕は頭の中で繰り返した。

 ——後日こちらから担当の者を派遣しますので、どうか黙って彼に付いて行ってはもらえませんでしょうか。

 その《彼》は、今、目の前にいる黒ベストの男の事を指しているのだと、僕はずっと思い込んでいた。手紙の主の指示によってこの男が僕の所に来たのではないとすると、《彼》とは誰なのだろうか? そしてあの手紙の主は——。

「すみません。これまでの話とは全く関係のない事なのですが、一つ教えてください。トドリキさんは、『論理を超えたもの』という名前をご存知ですか? それがコードネームなのか、ペンネームなのかは僕にもわからないのですが」

 それを聞いた黒ベストの男は、突然身を乗り出して僕の顔をまじまじと見た。それからゆっくりとテーブルの上に肘を付き、顔の前で指を組んで、低い声で言った。

「その手紙には何が書かれていたのですか?」

 そう問いかける黒ベストの顔はこれまでになく真剣だった。

「僕があの女性と会っていたことについて幾つか聞きたいことがあるから、担当の者を派遣すると……」

「ふむ。それで日並さんは手紙を入れたのが我が社の人間ではないかと疑ったのですね?」

「そういうことです」

「その手紙の封筒には何か変わった点は見つかりませんでしたか?」

「はい。宛先は書いてありませんでしたし、差出人の住所もありませんでした。それに郵便局で押されるはずの消印も押されたような形跡はなかったと思います」、僕は昨日の記憶を辿りながら言った。

「他に特徴は? 例えば、封筒に何か装飾が施されていたとか」

「そうですね。確か、羽ばたく白鳥の姿を描いたような装飾が施されていました」

 僕は昨日届いたその封筒の様子を脳内に鮮明に思い描いた。羽ばたくように翼を広げた白鳥のシルエット。そのシルエットが浮き上がるように見えるレースのように繊細で不思議な装飾。まるで星座を示しているかのように埋め込まれた12個の小さな宝石。

 だが男はなぜその封筒に装飾が施されている事を予想できたのだろうか。

「その手紙に《ゼアーズ》の事は記されていましたか?」

「ゼアーズ?」

 男の表情が一瞬だけ乱れるのがわかった。おそらく言ってはいけない事を漏らしてしまったのだ。明らかに男は冷静さを欠いていた。肩を使って息をし、呼吸を整えて動揺を隠そうとしている。

 ゼアーズ。これが英語だとすると、考えられるのはtheirsだが、それ以外にあるのだろうか。theirs——直訳すると、《彼らのもの》。だけど、《彼らのもの》とは何なのか、僕には皆目見当もつかない。

「……いや、忘れてください。あなたには関係のない事です」

 不機嫌そうな男の声音は、明らかに都合の悪いものを隠しているかのようだった。どのみち聞いたところでこれ以上のことは教えてくれないだろう。そう思った僕は、もう一つ確認したいことを訊いてみることにした。

「それではもう一つ質問してもいいですか?」、僕は黒ベストが「どうぞ」とサインするのを確認してから言った。「あなたたちが《イレギュラー分子》とやらを探す目的は何なのでしょうか?」

 男は不意をつかれたようだった。ただでさえ不機嫌そうな男の顔からは余裕が消え、男との間に一瞬にして緊迫した空気が走った。しばらく沈黙が降りたが、次に口を開けたのは黒ベストの方だった。

「我々『日本アウトベイディング』は、その《イレギュラー分子》から人類を守ろうとしているのです。おそらく彼女は、我々に救済の手を差し伸べているのではありません。もちろん、日並さんに対しても。それどころか、私と日並さんがこうして彼女の噂話をしている間も、どこかでほくそ笑んでいるに違いないでしょう。奴らは脅威的な存在です。その気になれば、奴らはこの宇宙を無に帰して、再び一から作り直す事だってできるのです。我々は、その暴挙に抵抗しようと抗っているのです。奴らの思い通りには絶対にさせません。そのために、その《イレギュラー分子》と接触した日並さんにお会いし、昨日電話で伺った内容が嘘ではない事を直接確認したかったのです」


 いつの間にか店内は賑わっていた。人々の談笑が聞こえ、スピーカーからは再びピアノとサックスの熱く繊細なハーモニーが奏でられている。店に入ってから、かれこれ一時間以上も経過したにも関わらず、まるで少しも時間が経過していないような錯覚に陥っていた。

「これからどうなさるのですか?」と僕は訊いた。

 黒ベストの男は不満そうに肩をすくめる。「しばらく前に注文したナポリタンがまだ来ないようです。きっと忘れ去られているのでしょう。もう一度注文し直して、私はそれでも食べながら、この先のことをゆっくり考えることにしますよ」

「そうですか。それでは僕はこれで失礼します」

 黒ベストの男は返事もせず、ただ黙って腕組みをしていたが、突然何かを思い出したかのように声を上げたかと思うと、ベストの内側から分厚い封筒を取り出して僕の前に差し出した。

「これは?」と僕が驚いて尋ねると、男は「お約束していた謝礼です」と言って僕の胸元に押し付けた。

「でも、僕は大したことは話していませんよ」

「それでも受け取ってください。何も、情報料だけが謝礼とは限りませんからね」

 黒ベストの男の最後の言葉が、まるで鉄サビの汚れのように頭の中にこびり付き、帰りの電車の中でも常に憑いて離れなかった。


 夕飯はコンビニ弁当で済ませ、シャワーを浴びて一日の汚れを落とすと、僕はすぐにベッドに横になった。

 三月の終わりだと言うのに、この日の夜は燃えるように暑かった。体の芯の火照りが全身に伝わり、気持ちが一向に落ち着かない。さっきまでの眠気がまるで嘘だったかのように寝付けなくなっていた。その寝苦しさは、喩えるなら砂漠の中にテントを張って横になっているような感覚だ。意識は、覚醒と睡眠の間で揺れ続ける。

 ベッドに入りながらも、頭の中では様々な事を思い巡らせていた。《左右対称の顔の女》が話していた、僕がこれから陥るであろう絶望とは何なのか。差出人不明の手紙の主は誰なのか。その手紙に書いてあった《彼》とは誰なのか。黒ベストの男は結局のところ何者だったのか。

 何か重大なことを見落としている気がした。この違和感を一度見過ごしてしまうと、もう二度と気付けなくなるかもしれない。僕は考えようとしたが、心の中にいる悪魔が囁き出す。そんなことを僕のようにちっぽけな存在が考えたところで、到底わかるはずもない。水槽の中の金魚のように、外側で繰り広げられていることを知ることなど不可能なのだから。

 僕は頭の中で宇宙を思い描き、その先にある《果て》を超え、誰も知らない遠くの世界へ飛んでいく自分の姿を想像した。微睡みがすぐそこまで迫ってきている。それでも僕はその先を求めて飛び続けた。やがて一つの惑星に到着した。そこは生物どころか植物も水もない、一面が砂漠で覆われただけの寂しい星だった。


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