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インサイド・アウト 第22話 旅立ち(1)

 気がついたときには、わたしは実家のソファの上に横たわっていた。体のだるさから察するに、どうも長時間眠っていたらしい。かすかな頭痛がこめかみのあたりで疼いている。

 床に落ちているスマートフォンを拾い上げて画面を見ると、PM6:36 5/13(Wed)と表示されていた。

 確か、Sを探しにこの家を出たのが五月六日頃。それからちょうど一週間が経っていた。でも、いつ自宅に戻ってきたのだろう。そもそも、いままでの出来事は現実だったのだろうか?

 ふと、数字の羅列が頭の中に思い浮かぶ。

 404310

 これは何の番号だろう?

 六桁の数字。生年月日ではなさそうだ。でも、どこかで見たことがある。

 起き上がり、キッチンでインスタントコーヒーを作って再びソファに腰掛ける。ふわふわと宙に浮いているような感覚が、まだ生々しく残っていた。

 まるで長い夢でも見ていたような気分だ。

 厳密には、夢のようなもの、と言うべきかもしれない。一般的な夢と一緒にするには、あまりにも突飛な夢だった。夢の内容を言葉を言い表すのは難しかったが、はっきりとしたイメージだけは脳に焼き付いていた。わたしは、長い間探し求めていた愛しい人と夢の中で再会し、その人と一緒に世界を救った。そして、すぐに別れた。なんともあっけない終わり方だった。

 あの人と、もっと一緒にいたかったな。

 コーヒーを口に運ぶ。ほのかな苦味が、寂しい気持ちを少しだけ紛らわせてくれた。表面にうずまく白い湯気がゆらりと揺れる。

 カフェインが脳に取り込まれ、意識が覚醒していくと、頭痛もだんだん楽になってきた。

 テレビを点けると、いつもの夕方のニュース番組が流れていた。芸能人の誰々が不祥事を起こして謹慎処分になったとか、近年まれに見る大雨によってオリンピックの準備に遅れが発生しているとか、わたしのような一般人には何の意味も影響もないようなニュースばかりが淡々と流れた。これといって変わったことは起きていないのは、いいことだ。平和が一番。

 わたしはいつも通りの日常に戻ってきたのだ。《原点O》から帰還し、こうして元の宇宙に戻ってきている。

 あれが夢だったのかどうか、いまとなっては確認する術はない。こうして実家で目覚めたわけだし、青木ヶ原樹海にSを探しに行ったのも、ホテルでSと過ごしたのも、日並響の自宅マンションで目覚めて、喫茶店で意識を失い、病院で頭部だけの状態で目覚め、《左右対称の顔の女》に会い、麻衣さんに会い、病院で眠る日並響に会い、《原点O》で彼とともに黒ベストの男と戦うまでの一連の出来事は、すべてが夢であり、脳内の幻だったのだ。

 そう言い聞かせて、わたしはテレビを消した。それから再びソファに横になり、これからのことを考える。

 これから先もずっと、わたしは実家にこもったまま過ごしていくのだろうか? 両親から嫌がられ、前に進めない自分に自己嫌悪を抱きながらも、お酒で思考を鈍らせて、現実から目を背けながらも現実の中を生きていくのだろうか? 何のために?

 外の世界で苦しい想いをするのと、いったい、何が異なるのだろうか?

 何も違わない。夢の中で擬似体験したに過ぎないが、家にいるときよりもむしろ外に出ているときの方が状態は良かったように思う。Sの行方を追っている間、些細なことで人間が嫌になったり、自分に対して嫌悪感を抱くようなことはなかった。頭の中に巣喰う邪悪な蜘蛛が、心の中に黒い糸を張り巡らせるような、あのモヤモヤした不快感もなかった。

 誰かのために何か行動をしているとき、良い意味で、わたしという個は失われた。何かに夢中になることで自己は解放され、自己は無になった。無になれるというのは、実に心地よい経験だった。

 ……。

 本当に、あれは夢だったのだろうか。
 Sの言葉を思い出す。

「夢は、僕たちにとって重大な意味を持っています。注意深く観察し、よく分析しなければなりません。もう一度言います。単なる夢だからといって、軽んじて考えてはならないのです」

 彼の言うとおりのような気がしてならない。

 本当に、あれが夢だったかどうか確認する術はないのだろうか?

 そんなことはない。
 頭の中では、わかっている。

 わたしにその勇気がないだけで、その気になれば、あれが夢だったかどうかを検証することは可能だ。

 確かめなければならない。

 ここで行動を起こさなければ、それこそ、わたしがいままで生きてきた意味がなくなってしまう。

 リビングの壁にかかっている時計の針を見る。

 もうすぐ七時。そろそろ両親が仕事から帰ってくる時間だ。

 わたしは、寝間着も同然の服装から外向きの服装に着替えて、両親の帰りを待った。


 両親が帰宅したあと、わたしは両親に、上京を考えていることを話した。三十七年間暮らし続けてきた実家を離れ、親戚も知り合いもいない東京に行きたいと言ったのだ。何を言っているんだと一喝されるかと思った。

 予想に反して、両親は、快く承諾してくれた。

 その代わり、資金的な援助はできないとのこと。わたしは、それで構わないと言った。

 何でもいい。どんなアルバイトでもいいから、三ヶ月間でお金を稼いで、転居資金にする。交通費も、引っ越し先の敷金も礼金も、毎月の家賃や光熱費も、すべて自分で払う。それで目的を達するための手段が整うのであれば、たいしたことではない。

 とは言ったものの、いざアルバイト探しを始めると、わたしに合いそうな仕事はなかなか見つけられなかった。年齢的なものもあるが、都会とは違ってそもそも雇ってくれるような場所が少なかった。あるのは町に二件しかないコンビニの店員か、スナックのママさんの手伝い、それから養鶏場のアルバイトくらいだった。養鶏場のアルバイトは日給一万円と羽振りがよいが、実際にはなかなかの激務だと母は言っていた。何よりも、養鶏場のオーナーの性格が難ありとのことだった。アルバイトを人間扱いせず、奴隷かのように扱うらしい。賃金さえ払っていれば何を言ってもいい。資本主義社会の悪い一面をすべて吸収してしまったかのような性格のオーナーのもとで、わたしが働けるわけがない。一万円の日給は魅力的だったが、あきらめざるを得なかった。

 そんな矢先、以前から通っていた心療内科の医師に、カウンセリングオフィスの事務員のアルバイトを紹介された。客層は、何かしら心に問題を抱えた人たちなので、なんとなく安心感があった。もちろん、全員が優しい人だとは限らない。心に余裕がないからこそ、無意識のうちに他人を傷つけてしまうような人もいるかもしれない。その気持ちがわかるだけに、事務員とはいえ簡単な仕事ではないことは容易に想像はついたが、わたしだからこそできる仕事なのかもしれないと前向きに考えた。それに、何かあればわたし自身の悩みを聞いてもらうことも可能かもしれない。一石二鳥だ。わたしは、快く医師の提案を受け入れることにした。

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