砂丘の満月

インサイド・アウト 第18話 灰色の町(1)

 病室の外は、しんと静まり返っていた。他に部屋がたくさんあるにも関わらず、物音ひとつしなかった。まだ昼間の明るい時間なのに仄暗く、患者の姿も、看護師が通路を行き交う姿もない病院の通路はまるで廃病院のようだった。何階にいるのかまったくわからなかったし、そもそもここが本当に病院なのかどうか、わたしは確信を持てなかった。

 でもいずれにせよ、頭部だけの状態になった人間を置いておくような病院が普通であるはずはなかった。万が一、先ほどの医師に見つかってしまったら、次こそ一巻の終わりかもしれない。わたしは誰にも気づかれないように息を殺し、忍び足で廊下を歩き始めた。そのときわたしは突然、この先に誰かがいることに気がついた。

 通路の交差部を右に曲がったところに、病室のものとは異なる木製のドアが開かれたままになっていた。蛍光灯の明かりが薄暗い通路に一筋の光を伸ばしている。その中に、その〝誰か〟はいた。二人の男が何も言わずにテレビを見つめていた。一人は、先ほどの医師の男だった。もう一人の男には見覚えはない。背広を着た、長身の男性だった。室内なのにサングラスのようなものをかけていた。

 話し声だと思っていたのは、テレビの音声だった。アナウンサーは何やら慌ただしい様子で状況を懸命に伝えようとしていた。アメリカのホワイトハウスをはじめとした世界各国の要所が、テロリストによって同時占拠されたというニュースだった。

「経過が良好でよかったです」、最初に口を開いたのは医師の男だった。「手術が終わって一日足らずで動けるようになっただけでなく、こんな偉業まで果たしてしまうなんて、さすがは等々力さんですね」

 等々力と呼ばれた黒いスーツの男は、窮屈そうに首の筋を左右に伸ばし、ため息混じりに言った。「まだ本調子ではないんだけどねぇ。あの女のからだは華奢でパワーがないし、いまいちしっくり来ないんだよ。でも、怪我の回復力は優れているし、どこへでも瞬間的に移動できる能力はすばらしいね」

 色黒で健康的な顔とは対照的に、からだの方は痩せていて色白だった。首の付け根には生々しいケロイド状の傷跡がある。

「イレギュラー分子、でしたっけ? 本来、この宇宙にはいるはずのない、外側の宇宙からやってきた存在というのは……。いや、信じていなかったわけではありませんが、まさか生きているうちに本当に相見えることになるとは思いもよりませんでしたよ」

「あなたみたいに黙って指をくわえているだけだと、そりゃ会うことはできないでしょうねぇ」、等々力と呼ばれた男は上着を脱ぎながら言った。ホストクラブのホストが身につけるような光沢のある黒いベストがあらわになった。「この日のために私たちは世界中にありとあらゆる監視システムを張り巡らせ、観察を続けてきたのです。だから、これは地道な努力によって必然的に得られた成果と言っても過言ではないのですよ」

 男は、脱いだ上着を椅子の背もたれにかけた。部屋の空気がわずかに揺らぐ。それと同時にキツい香水匂いが通路に流れてきて、わたしは思わずむせ返りそうになった。

 そのとき、医師の男は小さくうめいた。何か異質なものを発見したかのように、まばたきもせずにタブレットの画面を見つめている。

「女の反応が……なくなりました」

「なんだって?」と等々力は聞き返す。

「脳波の動きがないことから見て、脳の活動が停止したのだと思われます」

「つまり、死んだということかい?」

「ええ、そういうことになります。先ほど診察したときには、脳機能は極めて活発に働いているように見えたのですが……」、医師の男は考え込むように黙り込んだ。

「生かしておいたら、何かに利用できると思ったのにねぇ」と等々力はつまらなそうに言った。「まさか、彼女は自分で生命維持装置を停止したんじゃないだろうね?」

「それは絶対に不可能なはずです。手足はおろか、胴体すらも失った人間が機器を操作するなんて、できるわけないでしょう」

 そう言って、医師の男はかぶりを振った。

 黒いベストの男は顎に手を当てて考え込んでいる。「いや、そうとも限らないですよ。イレギュラー分子なら、それくらいの芸当はできても不思議ではありません。空間を瞬間移動したり、人に幻覚を見せたりもできるくらいですからねぇ。それか、あるいは——」

 話を中断して、黒ベストの男はゆっくりとこちらに振り向いた。その瞳は獲物を視界に捕らえた蛇のように鋭く、怪しい光を放っている。「そこにいる女ならば、何か知っているかもしれませんがね?」

 男と目が合った。その瞬間、わたしは無意識のうちに走り出していた。床を蹴り、二人の男からできる限り離れようとした。通路を駆け抜けながらも、非常口の誘導灯を懸命に探す。そして、偶然見つけた非常階段の扉を押して、中へと滑り込んだ。そのまま振り返ることなく、一段飛ばしで階段を下へ下へと駆け下りていった。ただ少しでも早く階段を降りることだけに意識を集中した。振り返る余裕はない。振り返れない。もしも追っ手の姿を目にしてしまったら、恐怖で動けなくなってしまうかもしれないからだ。

 一心不乱に逃げながらも、わたしは別のことを考えていた。昔からよく見る《あの夢》のことだ。

 その夢の中で、わたしはいつも何者かに追いかけられていた。それが誰なのかはわからない。人間なのか、亡霊なのかどうかも。その正体から逃げようとすればするほど、足は動かなくなり、冷たい吐息が背後から近づいてくるのだった。

 なぜ夢のことを突然思い出したのだろう、とわたしは思った。そしてすぐにその理由に気がついた。今、その夢と同じようなことが現実で起きているからだ。わたしは今、二人の男に追われている。そして、夢の中で見た螺旋状の非常階段を、夢で見たときとは逆向きに進んでいた。それはまるで夢を逆再生しているかのようだった。

 鉄の扉が、突然、視界に飛び込んでくる。いつの間にかわたしは非常階段の最下段に到達していたようだ。急いでツマミを回し、鍵を開ける。

 この密閉空間から、わたしは一刻も早く抜け出したかった。ノブを回して、扉に全体重をのせた。扉のひんやりとした感覚が、腕から体内に伝わっていく。心臓が凍るような感覚に、胸の鼓動が止まりそうになった。

 扉が開く。まだ冷たさの残る初夏の風がからだを包み込んでいく。同時に、先ほどまでの静寂がまるで嘘だったかのように、街のにぎわいがわたしを平常の現実へと引き戻していった。

 無機質な都会の街並みが、目の前に広がった。

 その町に、わたしは見覚えがあった。それは何者かに追いかけられる夢で見た《灰色の町》にそっくりだった。



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