中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第10話 仕組まれた邂逅(2)

 ——PM7:23 5/6(Wed)

 夜空に漂う満月のように、Sの左手首に映るスマートウォッチの画面が、闇の中に浮かんだ。

 一つの独立した生き物の如く、「時」と「分」の間にあるコロンが一秒ごとに点滅している。心臓の鼓動のように脈打つ符号は、彼が生きている証のようにも思えた。

 《青木ヶ原樹海》の中から無事に抜け出したあと、『風穴』のバス停の前で、わたしたちは途方に暮れていた。最終のバスがすでに発ったあとだったからだ。夜の七時過ぎ。駅への移動手段は、すでに失われていた。

 タクシー会社に連絡してみたが、通話中で繋がらなかった。何度電話しても状況は変わらない。わたしとSはあきらめて、歩いて駅へと向かうことにした。

 人通りのない国道を歩きながらお互いの話をした。過去のことから現在のことまで、思いつくままにとりとめもなく語り合った。彼の仕事の話や幼少期の話、家庭環境から大学生活まで、様々な話を聞いた。わたしも、自分の生い立ちや両親とのこと、今は仕事をやめて家で休養していることを伝えた。過去に自殺未遂を試みたことも包み隠さず話した。

 普段、このようなことを他人に話すことはなかった。こういう話をすると、大体の人は反応に困り、黙り込んでしまうからだ。あるいは強く非難されるかのどちらかだった。

 彼は静かにわたしの話を聴いた。それでいて、誰も触れない核心を突くようなことでも、オブラートに包んでうまく質問してくれた。それが、自分のことを受け入れてくれているようでわたしは嬉しかった。それでも、一時間以上も話をしていると、次第に会話よりも沈黙の割合の方が増えていった。

「自殺って、結局『逃げ』だよね」

 長い沈黙のあとに彼が漏らした言葉は、冗談か本気かよくわからないものだった。

「ごめん。僕はこういうブラックジョークを言うのが好きなんだ」、反応に困っているわたしを見て、Sは言い訳をするように言った。

「で、実際のところ、どう考えてるの?」とわたしは訊いた。

「何にも考えてない。君はどう思うの?」

「わたしはね、正直よくわからない。『逃げ』のようにも思うし、そうでないようにも思う」

「まぁ、そうだろうね。答えなんてないと思う。仮に答えが一つだったとしても、どう感じるかは人それぞれだし、ケースバイケースだからね。だから考えるだけ無駄だと思って、何も考えてない」

 なるほど。確かに、他人にどう思われるか考えたところで相手の考えを変えることは困難なのだから、考えるだけ無駄、ということだろう。でも、さっき彼の口から漏れた『逃げ』というのは、きっと自分のとった行動に対して彼自身が感じていることなのかもしれない。

 仕事に追い詰められ、この社会から逃げ出したくなったのだとすると、『逃げ』と表現するのは間違っていないように思った。だけど、それを『逃げ』と言っていいのは、本人だけである。他人にはとやかく言う資格はない。

 Sは今、何を考えているのだろうか。

 前を見据えて静かに歩く彼の横顔を見て、わたしは気になっていた。自殺の邪魔をされて、心の中では実は腹を立てているのだろうか。それとも、感謝とまではいかないまでも、死ななくて良かったと思ってくれているのだろうか。意図して止めに行ったわけではないが、どちらかといえば、後者の方がありがたかった。

 すぐに他人の顔色を伺い、嫌われたくないと思ってしまう悪癖は、どんなに大人になっても治ることはなかった。立派な経歴もなく、優れた容姿を持っているわけでもないただの人間が、ありのままの姿以上に他者から評価されたいと願っている。ちょっとでも冷たくあしらわれると、自分が全否定されたと勘違いする。

 そんな自意識過剰なわたしに対して、Sは極めて冷静に自分というものを客観的に捉えているように思った。自我というものをまるで持っていないかのようだった。他者の目など関係ない。全ての基準は自分の中にあり、物事の良し悪しを自分が判断する。わたしもそのようにして周りに振り回されない生き方をしたい。そう心から思った。


 緩やかな下り坂の遥か先には、街の灯りが見えた。しかし、一時間ほど前からその景色は少しも変わることはない。そこに一枚の巨大な絵が置かれているかのように、歩いても歩いても、一向に近づく様子はなかった。

 暖かい春の気候とはいえ、いつまでも夜風に身を晒して歩き続けるのは、肉体的にも精神的にもキツいものがある。彼も同じことを感じているようだった。ただでさえ疲れ切った顔から、さらに生気が奪われている。

「やっぱり、タクシーが来るまであそこで待ってた方がよかったかな?」

 そう言ってSは電話をかけたが、いまだに繋がらなかった。わたしもかけてみたが、やはりつながらない。このまま歩き続ける他なかった。

 スマートフォンの画面を見たとき、ひょっとしたら親から着信が来ているかもしれないと思ったが、着信履歴は一つも入っていなかった。自分の娘が、何も言わずに早朝から家を出たまま連絡を寄越さなければ、心配して着信の一つくらい入れるのが普通だろう。その娘が三十代の女だとしても、例外ではないはずだ。だがうちの親はそのようなことはしなかった。わたしがいつどこで野垂れ死のうと、彼らには関係のない話なのだ。わたしは自分の存在意義に再び疑問符を投げかけた。

 そのとき、彼は立ち止まり、後ろを振り返った。わたしも同じように立ち止まり、後ろを見る。

 まばらに配置された街灯によって薄暗く照らされたアスファルトは、来る者を誘うように深い森へとまっすぐ伸びている。しかし、わたしたちを再び誘い込もうとする気配は感じられなかった。それどころか、暖かく見守られているような気さえもした。森は、出ていくわたしたちの背中を、優しく押してくれている。

「きれいな森だったね」、森の方を見ながら彼は言った。

「うん」とわたしは頷いた。

 ここへ来る時には漠然とした恐ろしさを感じた《青木ヶ原樹海》だったが、帰る時にはただの美しい森へと変貌していた。

「Sさんは、青木ヶ原樹海に来たのは初めてなんですよね?」

「何度も言うように、今日が初めてだよ」

 わたしは、ずっと気になっていたことを言った。「やっぱり……何かがおかしいと思いませんか?」

 彼はしばらく考え込むように黙った。それから何分か、会話もせずに歩き続けたあと、大きく息を吸ってその口を開いた。

「『おかしい』っていうのは、僕のアカウントで樹海の写真が投稿されていたのを君が見たっていう話だよね?」

「うん」とわたしは言った。

「君は、僕が樹海の写真を投稿したと言っている。それに対して、僕は投稿していないと言う。これは明らかに矛盾してる」

「うん」

「だけど、これらの矛盾する出来事が、どちらも事実だとしたら、これは少し奇妙な話になる」

「少しどころじゃないけどね」、わたしは笑った。

「まあね。で、これらを事実だと考えると、そこにはどうしても第三者の姿が浮かんでくる。そういうことを君は言っているんだよね?」

「うん。そういうこと」

 再びSは黙って歩き続けた。

 辺りには、ゴルフ場や果樹園の看板がちらほらと見え始めていた。人が住む家もところどころに姿をあらわし、森を抜けたばかりのときのような寂れた感じはすでになくなっていた。

「でもさ、その誰かさんが、Sさんのアカウントを使って写真を投稿したんだとしても、どうやってやったんだろう?」

「……僕は一つだけ思い付くよ」

「何?」

 わたしはSの顔を見た。

「やろうと思えば、他人のSNS上に写真を流すことは、そんなに難しいことじゃない」

「……ハッキングとか?」

「ハッキングまでしなくても、その気になれば他人のアカウントでログインして写真を投稿するくらい誰でもできるよ」、Sはまるで過去にそのようなことを試したことがあるかのように言った。

「でも、誰がそんなことするの? 何のために?」

「問題はその点なんだよな……。さっきから考えてるんだけど、それだけはどうしてもわからない。こういうのって、仕掛ける側にもそれなりのリスクが伴うはずなんだ。万が一、不正をしているのがバレたら、ただじゃ済まないからね。だからそれなりの強い目的がないとそこまでやらないのが普通だよ」

 Sの言う通り、彼のSNSに樹海の写真を投稿することにそれほどの価値があるとは思えない。

「もしかして、こうやってわたしとSさんを会わせることが、その誰かさんの目的だったのかな」

 深く考えずに発した言葉だったが、言った後で急に恥ずかしくなった。

「そうだとしても、それに何のメリットがあるんだろう。何の意味があるのかもわからないし、誰かの得になるようにも思えない」

「もしかしたら、その誰かさんは、Sさんにどうしても死なないでほしかったんじゃないのかな。だから、たまたまSNSを見ていたわたしに《青木ヶ原樹海》の写真を見せた」

 もしどこかに彼のことを大切に思っている人がいたとしたら、そのように仕組んでもおかしくない。わたしだったらそうするかもしれない。でも——。

「そんな遠回りで運任せな方法じゃなくても、もっと良い手段が他にたくさんあるような気がするんだけどなぁ……」、わたしの考えを代弁するかのようにSが言った。

 そう。手段にしてはあまりにも遠回り過ぎる。それに確実じゃない。可能性にしたら限りなくゼロパーセントに近いだろう。わたしがあの写真を見るとは限らないし、仮に見たとしても何の根拠もなくこんな山奥に行こうなどと考える保証はない。人の気分によって結果が大きく左右されるような計画など、計画とは言えない。

「誰かさんは、わたしが樹海の写真を見てここに来ることをどうしてわかったんだろう?」

 本当にわたしをSと合わせるために仕組まれたことなら、わたしの行動をある程度予測できる人物でなくてはならない。だけどわたしには、心当たりになる人はいなかった。もしいるとすれば、それは自分自身に他ならない。自分の中に創造した楽園の中に住む、もう一人の自分。彼女は存在する。誰にも侵されることのないわたしだけの世界であり、唯一の聖域であるこの頭の中に。だけどそれは空想上の人物であり、この現実世界には存在しない。

 Sは、相変わらず考え込むようにうつむきながら歩いている。集中すると周りの声が耳に入らなくなるタイプなのかもしれない。

「わからない。でも——」、彼は確信を持った強い声で言った。「僕が命を絶つことを事前に知った何者かが、麻衣さんに僕を見つけさせ、自死を断念させることが目的だと考えるのが一番しっくりくるように思う。その理由までは全然わからないけど」

 理由は全然わからない。だけど、そう信じることは悪いことではないように思えた。運命や神様といった実体も知らないものに因果関係を求めるよりも、その方がずっと現実的だし、ロマンチックだ。

 彼の死を防ごうとしたのは誰なのか?
 目的は何なのか?
 その人はどうしてわたしを選んだのか?

 歩きながら何度も自分自身に問い、その意味を考え続けた。

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