中央アルプスに初夏の天の川_中

インサイド・アウト 第12話 夢の終わりに(2)

 自分の思い描いた光景が夢に現れるのならまだわかるが、他人の見た夢が自分の夢に現れる理由は説明がつかなかった。

 わたしが幼い頃から見続けていた《何者かに追いかけられる夢》の続きは、Sが幼い頃に見た《砂漠の無人駅》の夢へと繋がった。まるで映写機のフィルムが巧みに切り貼りされたかのように見事に融合していた。

 現実世界では、今ごろ、樹海のカビ臭いラブホテルの一室でSとわたしはベッドで安らかに眠っているはずである。彼が今見ている夢の中にわたしが入り込んだのか、それとも単に自分の脳が彼の夢を精緻に再現しただけなのか、夢の世界に閉じ込められたわたしに知る術はなかった。

 目の前にいる男の子は、涙が止まったあとも時々しゃっくりをして、その度に体を震わせた。父親を失い、母親にも迎えに来てもらえず、ここで長い間独りで泣いていたのだ。その姿が、現実世界のSと重なった。

 男の子の顔を、包み込むように胸に抱き寄せる。

「怖かったね。よく独りで我慢したね」

 精巧な彫刻を抱擁しているかのように、男の子の体は冷たく、固かった。長い空旅でわたしの体も相当冷えているはずだったが、それ以上に冷たかった。首元にかかる冷たい吐息が肌を刺す。

 その小さな身体を抱きながら、〝夢の中の夢〟のわたしがSに訊いていた《この夢の続き》の話を思い出していた。

 父親が地面の穴に吸い込まれ——そしておそらく蜘蛛に食べられてしまったあと、小屋は無数のアリ人間の集団に囲まれたとSは言っていた。しかし見る限り、窓の外にそのような生き物の影は見えない。月夜の仄暗い闇に同化しているのか。それとも砂丘の陰影に身を潜めているのか。様々な臆測を巡らせる。黄ばんだガラス窓の向こう側を眺めながら、わたしは静かに息を飲んだ。

 しばらくすると、男の子は温もりを取り戻してきていた。首に当たる息も、さきほどよりだいぶ温かくなっている。

 抱擁を解き、男の子の両肩に手を置いて、わたしは言った。

「ここから出よう」

 男の子は激しく首を横に振った。体が小刻みに震えている。

「もしかして、アリ人間が怖いの?」

 わたしが言うと、男の子は目を丸くした。「アリ人間を知ってるの?」

「うん。ある人から聞いたの。この砂漠にはアリ人間が出るんだって」

「それなのに、おねえちゃんはどうしてこんな所に来ちゃったの?」

 お姉ちゃんなんて呼ばれる年齢ではないんだけどな、などと状況にそぐわないことを考えながら、少しでも安心させるように笑顔を作った。

「あなたを助けに来たの」

 男の子の心が楽になるようにと、わたしは嘘をついた。

「ほんとに? 何で僕がここにいるってわかったの?」

「それも、アリ人間のことを教えてくれた男の人から聞いたんだ」

「その男の人って、もしかして茶色のぼろぼろの服を着た人?」

 うぐいす色のローブを着た男のことを言っているのだろうか。〝夢の中の夢〟でSが言っていた、《砂漠の無人駅の夢》に登場した「ボロ雑巾のような服を着た男」というのは、わたしの夢に出てきた《ローブの男》と同一人物なのだろうか? だとすると、この妙な夢を見せているのも、その男の仕業なのかもしれない。


 男は言っていた。
「君に、《こちら側》に来て欲しかったからさ」と。

 男は言っていた。
「私はね、彼の命を救うためなどではなく、君を私の力の及ぶ所に呼び寄せるために、彼を利用しただけなんだよ」と。

 男は言っていた。
「私は、彼であると同時に、彼ではない」


 うぐいす色のローブの男は、Sでもあり、目の前にいる男の子でもあるのかもしれない。しかし、それの意味することが何なのか、この子に訊いたところでわかるわけはない。

 そうは思っていても、わたしは訊かざるを得なかった。

「あなたは、どうしてわたしをここに呼んだの?」

 男の子はきょとんとしてわたしの顔を見つめた。

「……ごめん。何でもない。あなたはここに、ただお父さんに連れて来られただけなんだもんね。お父さんがなぜここに来て、そのあとどこに行こうとしていたかなんて、知らないよね」

「知ってるよ、僕」と言って、男の子は黄ばんだガラス窓の外を指差した。「この先に、大きな塔があるんだ。ここで待っていれば、そのうち迎えが来るってお父さんが言ってた。だから僕はここで誰かが来るのをずっと待ってたんだ」

「……その塔には、何があるの?」

「『この世の全てがそこにある』って、おとうさんは言ってた。この世界をダメにしてしまった犯人がそこにいるんだって。そいつがせいで、他のニンゲンは一人残らず死んでしまったって」

「他の人間は一人残らず死んだ……って。だったら、あなたは何者なの? 人間じゃないの?」

「わからない。だけど少なくともこの世界の人間ではないのは確かだよ。でも、どこか別の世界では人間だった気がする。《こちら側》では、僕は特異な存在なんだ」

「ごめん。何が何だか、お姉さんにはよくわからない」

「そんなことより、僕をその塔に連れて行ってくれない?」、男の子はまるでわたしの話を聞いていないようだった。「ここから北極星に向かって飛べば、その塔に着くんだよ」

 窓の外を見たが、黄ばんだガラス越しでは北極星の弱々しい光を捉えることはできなかった。

「ここからだとよく見えないわ」

「はっきり見えるでしょ。はくちょう座の『尾』の場所で輝いてる、あの星だよ」

「でも、あれって《デネブ》だよね。北極星はもっと右にある……」

「おねえちゃんは歳差運動を知らないの? 地球の軸は、約2万5800年の周期で自転軸が回るんだよ。回転するコマが、ぐるぐると首を振るようにね。軸の方向が変わるんだから、当然、地軸の延長線上に見える星も変わってくる。つまり北極星は常に同じ星を指すわけではないんだ」

「どうしてそんなことを知ってるの?」、わたしは驚いて小さな男の子を見た。

 男の子は無邪気に胸を張って答えた。「すごいでしょ! 僕の家にある本を読めば、宇宙のことは何でもわかるんだ」

「ここは……未来の地球なの? それとも過去?」

「不正解。そのどちらでもないよ」と男の子は舌を出して言った。「時間の流れだけは、どう抗っても人間は逆らえないんだよ。時間の進み方が時空によって相対的に異なることはあっても、不連続に飛び飛びになることはありえないのさ。なぜなら、時間とは『エネルギーの連続的な変化が起こる速度』を便宜上定義しただけのものだからね、たぶん。

 だから不連続になることはないし、逆戻りすることもない。もし時間が不連続であり、可逆性のあるものだとしたら、もはやそれは時間とは異なる概念になると、僕は思うんだ」

 未来でも過去でもないとすると、ここは一体何なのだろう。ただの夢の世界? それとも——。

「ここはね。あらゆる宇宙の中心であり、生みの親である宇宙。僕たちはここを《オリジン》って呼んでいる。だけど、ここはもう終わりだよ。もうじき滅びる。滅びなければならない。でも、それはつまり、子供の宇宙たちが無に帰ることを意味している。おねえちゃんの住む宇宙も、例外ではないんだよ」

「ねぇ……これは一体……?」

「そんなことより、早く塔に連れて行ってよ。おねえちゃん、空を飛べるんでしょ」

「どうしてそれを知ってるの?」

「だって、ずっと見てきたから……。おねえちゃんがこの小屋を見つけて降りてくるのも、闇の森の中で誰かに追いかけられていたのも、樹海のラブホテルの中で、大人になった僕と一緒に寝ていたのも、ぜーんぶ知ってるんだよ」

 あなたは、一体、誰?

 そう言いたかったが、声を出すことができなかった。夢の中なのに、まるで金縛りにかかったように、体の自由が効かない。

「ちなみに僕は、おねえちゃんを追いかけていた《何者か》が誰なのか、知ってるよ」

 そう言って男の子はどこからともなく手鏡を取り出し、こちらに差し出した。

「おねえちゃんを追いかけていたのは、おねえちゃん自身だったんだよ」

 手鏡に映るわたしの背後には黒い霧が立ち込めていた。その霧はやがてわたしの体を包み込むと、胴体と共にどこかへ消えた。首だけの姿になったわたしは、表情一つ崩さずに、鏡の奥でただじっとこちらを見つめている。

 やがて、わたしの意識は、強い耳鳴りと共にフェードアウトしていった。

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