砂丘の満月

インサイド・アウト 第21話 inside-out(3)

 僕たちは手を繋いだまま、塔の入り口の前で夜空を眺めていた。

「きれい……」と彼女は息を飲んで言う。

 これから起こることを彼女に話すべきかどうか、僕は迷っていた。今から僕たちは等々力と戦うことになる。勝算はないわけではない。つい先ほど身に付けた、想像力を現実世界に対して作用させられる力を使って、等々力の企みを阻止することはできるかもしれない。だが、より大きな事象を起こそうとすると、それだけのダメージが体に伴う。

「君はここで待ってて」と僕は言った。

 彼女は首を横に振った。「あなたを独りにしてはおけない」

「だけど……」

 関係のない彼女を巻き込むわけにはいかない。万が一失敗した場合は、僕がされたのと同じように、彼女もまた脳だけの状態にされ、永遠の闇の中を生き彷徨うことになるのかもしれないのだ。それだけは絶対に避けなければならない。

「わたしにだって、関係あるよ」

 彼女は、僕の心を見通すかのように言った。「わたしね、あなたの姪に会ったの。夏希さんから、あなたを連れ戻すように言われたのよ」

「どうして君が、夏希に……?」

「気持ち悪いと思われるかもしれないけど」、彼女はこれから話すことを躊躇するように口をすぼめて言った。「あなたが身に付けていたスマートウォッチのGPS信号を追っていったら、あなたの実家に着いたの。そしたらね、夏希さんはあなたの眠っている病院にわたしを連れて行ってくれたのよ――」

 そこまで言って、彼女は何か大切なことを思い出したかのように目を大きく見開いた。

「ねえ、聞いて。あなたの宇宙が、大変なことになっているの。等々力っていう男の人が、何か良くないことを企んでいるみたい。わたしたちと同じように、あなたの宇宙を思い通りにできる力を持っている。瞬時に場所を移動することができるって本人が言ってた。たぶん、空を飛んだり、他人を瞬時に消し去ることも、そのうちできるようになるかもしれない」

《原点O》で等々力と同じ名前と姿を持つ者に会ったときから、何か嫌な予感がしていた。直接的ではないにせよ、あのふたりは何かで繋がっていると感じていた。あの直感は正しかったのだ。だとすれば……。

「だとすれば、この塔の最上階ににいる男を倒してしまえば、すべてが解決するかもしれない。そこにいる、オリジナルの等々力を倒すことさえできれば……」

 言いながら、本当にそんなことができるのだろうかという疑問が頭をもたげる。僕にそれができるのだろうか? 人を殺したことも、自らの命を絶つことも失敗した僕に、等々力のような強靱な肉体を持つ男を殺めることなどできるのだろうか?

 先ほどの経験から、あまりにも大きな変化を望みすぎると、その分大きな代償を払わなくてはならないことは大体わかっている。アリ人間たちの動きを制するだけで強烈な頭痛が伴い、しばらく思うように動くことができなかった。ましてや、等々力自身の存在を消すことを願おうものならば、おそらくその引き換えに僕自身の肉体も差し出さなくてはならないだろう。

 それでも、自分自身の肉体に対して強靱なイメージを持つ分には何の影響もないことは確認済みだ。脚力を増すことだってできるし、空を飛ぶことだってできる。原理は夢の中と一緒だ。できると信じていれば何でもできるし、マイナスイメージを持つことは自身に不利に働くことになる。最悪のケースを想定しつつ、最善のイメージを持たなくてはならない。

 塔の上にいる等々力は、永遠の命を手に入れたと言っていた。寿命の概念はないし、病気にかかることもない。多少のけがをしたところですぐに修復されるだろう。そこまではすでに織り込み済みだ。

 勝負は一瞬にかかっている。相手が油断している隙に、一気に片をつけなければならない。奴は力が強いし、警護しているアリ人間に襲われてしまっては、どんなに強い腕力のイメージを抱いたところで、そのイメージを上回った力でねじ伏せられてしまう可能性がある。

 勝負は一瞬だと、もう一度頭の中で繰り返して、僕は深く息を吐いた。気が遠くなるほどの長い戦いも、これで終わりだ。すべてが終わったら、僕はまた、なんてことのない日常に戻ることになる。

「これが終わったら、いつも通りの日常に戻るのかな」

 僕と同じことを考えているかのように、彼女はつぶやいた。
「いつも通りの日常、か」

 ふと、仕事のストレスで自殺まで考えていた頃の自分を思い返した。今となってはずっと前の出来事のように感じるし、実際にそうなのだろう。あれからもう、果てしない年月が流れている。もし仮にもとの宇宙に戻れたとしても、そこはすでに僕の知る地球ではないだろう。

 なんて狭い世界で生きていたのだろう、と今になって思う。仕事で失敗して誰かにひどく罵られようが、命まで奪われることはないのに、僕は自ら命を失おうとしていた。何を恐れていたのだろう? 今となっては、もうはっきりと思い出すことができない。だけど、どちらにせよ、大したことではなかったように思う。それなりに大変で必死だったのだろうけど、僕のことだから、ちっぽけなプライドや保身のために表面だけを取り繕った結果、自分を追い詰めることになっただけなのだ。ろくに休みもせず、ひとりで狭い部屋にこもって戦っていたら、まともな思考が働かなくなるのも仕方がないだろう。内に籠もってないで、外に出て行かなくてはならない。僕のような陰鬱な性格の人間こそ特に、外の広い世界をもっと見なければならない。 

 嫌なことがあるなら、無理せず堂々と助けを求めればいい。それでもとりあってもらえなければ、しばらく会社を休んでしまってもいい。自殺に追い詰められるまで自分ひとりで何とかしようとする必要なんてないのだ。今になってようやくわかった。もう、今さら遅いのかもしれないけれども、もしもまた普通のサラリーマン生活に戻ることができるのなら、プライドなど捨てて、もっと自由に振る舞うようにしよう。そして、僕と同じようにひとりで抱えて苦しんでいる人を助けたい。もう、今となっては遅すぎるかもしれないけれど……。

「行こう、か」

 僕が言うと、彼女は小さく「うん」と言った。小さいが、決意のこもった強い声だった。僕は彼女の手を引いて、門の入り口まで歩いていった。

 塔の入り口は、トラック一台は軽く通れそうなほど大きな木製の門で閉じられていた。扉に手を触れると、重厚な見た目に反して軽々しく開いた。ゆっくりと中に足を踏み入れる。ふくらはぎから太ももにかけて、小動物のように関節が震えているのが自分でもわかった。少しでも気を抜いた瞬間に腰を抜かしてしまいそうだ。恐怖を押し殺し、深く息を吐いて、一歩、足を奥に踏み入れる。

「大丈夫。何かあったら、わたしがまたあなたを連れて空を飛ぶから」

 抑揚のない声で彼女は言った。彼女もまた、この先で起こるであろう得体の知れない出来事を想像して怯えているのだろう。

 しかし、何が彼女を突き動かすのだろう、と僕は思った。得たいの知れない世界に来て、得体の知れない塔に入ろうとしているのだ。怖くないはずがない。本当は怖くてたまらないはずだ。彼女も知っているのだ。等々力という男の異常性と冷淡な性格を。

 塔の中はひやりと冷たい空気が流れていた。砂埃が混じった外の空気とは異なり、よく清浄されたきれいな空気だった。部屋の中央には透明なコーヒーソーサーのようなエレベーターが浮かんでいた。どのような動力で作動するのか未だにわからないけれど、まるで僕たちをずっと待ち構えていたかのように静かに浮かんでいた。塔の内壁には巨大な水槽があり、中は黄金色に輝いている。塔の内部の様子は以前来たときと変わっていない。以前と異なるのは、金箔を溶かしたかのような水槽の液体は実は人間の脳であり、この宇宙にかつて存在していた人間のなりの果てだということをすでに僕が知っているということだった。

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