砂丘の満月

インサイド・アウト 第15話 原点O(5)

「『もしもし……Sさんの奥様でいらっしゃいますでしょうか。わたくしは半年ほど前に火災で全焼した老人ホーム施設〈けやきの森〉に入居していた者であり、あの事故でSさんに命を救っていただいた者の一人でございます。

 本来であれば直接お会いして、きちんとお詫び申し上げるべきだと思うのですが、情けないことに、わたくしは自由に体を動かすことのできない身で、歩くことはおろか、一人で電話することもままならないのでございます。電話するだけでも、誰かの助けなしには不可能なのです。しかし、こうしてご連絡を差し上げるのに半年以上の時を費やしてしまったのは、また別の理由があってのことでした。

 Sさんが亡くなられたと聞いた日、わたくしはひどく後悔しました。自分さえいなければ、Sさんは命を落とすことはなかったのかもしれないと思いました。脳みそを入れる箱としてしか機能していない肉体など、あのときに精神もろとも滅びてしまえばよかったのです。

 このお詫びは死をもって償う他ないと思いました。奥様……あなたが感じていたのと同じように、自分さえいなければ、Sさんは悲劇的な運命を迎えずに済んだのではないかと考えたのです。

 わたくしは混乱しておりました。奥様とどう向き合えばよいのかわかりませんでした。怖かったのです。後ろ指を指され、非難されることを恐れていたのです。半年間、必死になって言い訳を探しました。あれは事故だったのだ。仕方なかったのだと。

 不思議なもので、逃げれば逃げるほど、問題というものは余計に大きくなって追いかけてくるものです。肉食獣に追われる草食獣のようなに、一度狙われてしまったら、闇雲に逃げてもダメなのです。あなたも身に覚えがあるでしょう。例えば、夢の中で何かに追いかけられたことはありませんか? 逃げれば逃げるほど足が重くなって、疲れ果てた挙句、何者かに捕まって殺されてしまうのです。

 でも、正体を確認しようと振り返ってみると、実は誰からも追われていなかった——なんてこともありえます。あるいは、勇気を振り絞って戦ってみたら、意外と簡単にやっつけることができたりもします。

 迫り来る闇に背けば背くほど、その闇は大きくなり、光を見失っていくのです。なぜなら、闇というものがあるからこそ、光というものが存在し得るのですから。

 さて、混乱する頭を抱え、わたくしは精一杯考えました。どのように謝罪するのが最も適切なのか。どうすれば、自己満足などではなく、お互いに納得のいく形で和解できるのか。そしてどうすれば悔いを残さず寿命を迎えることができるのかを。

 しばらくの間、自分のことしか考えていませんでした。他人の目から良く見られるにはどう言い訳をするのがよいのか。ただそれしか考えていなかったのです。あなたへの謝罪の言葉が見つからなかったのは、結局のところ、自分の保身しか考えていなかったからなのでしょう。

 吹っ切れるのに半年間かかりました。そして、この決心が揺らがないうちにこの意志をお伝えしておこうと思い、本日、このようにして電話を差し上げたのです。

 さて、あの火災の件については、すでに警察から事情はお聞きになっていると思いますが、Sさんは、わたくしのように体の不自由な者たちを助けるために、自らの危険を顧みず、炎の中へと入っていきました。そしてそのお陰で、中に取り残されていた五名のうち、このわたくしも含めて四名の老人の命が救われたのでございます。

 しかし、命の恩人であるSさんの奥様に対してこんなことを言うのは失礼だとは思いますが、我々のように先の短い者など、最初から放っておいていただければよかったのです。今日一日生き長らえたとしても、そう遠くない未来に死にゆく身である我々に対し、Sさんは、人生のうちで最も脂の乗った年頃でした。30代から40代は人間的にも成熟し、まさに本当の意味で人生が面白くなり始める時期なのです。世の中の酸いも甘いも噛み分けて、その生き様に深みを持ち始める頃なのです。それにSさんには、彼のことを必要とする奥様とお子様たちの存在もありました。

 〝命の重さは対等だ〟とはよく言われる話ですが、今回の剣は、その一言で簡単に済ませられる問題ではありません。Sさんとわたくしの命とでは、さすがに釣り合わないことくらい、八十年以上も他者を踏み台にして生き延びてきたジジイの図太い神経でもさすがに理解できるのでございます。

 命を救われた他の者たちがどう考えているかは存じ上げません。ですが、このわたくしに関して申し上げますと、これまでの人生には一片の悔いもありませんでした。やりたいことをやり尽くし、人間関係には恵まれ、金銭的にも何一つ不自由のない生活を送っておりました。もうすっかりこの世に満足していたのでございます。長年連れ添った妻はすでに亡くなり、子供達も立派に独り立ちしております。あとはあの老人ホームで、変わりゆく街の景色を目に焼き付けながら、お迎えが来るのをただ待ち続けるだけだったのでございます。

 そんな矢先に起こったのが例の火災です。奥様には申し訳ありませんが、わたくしは、あのまま死んでしまっても構わないと考えていました。燃え盛る炎を眺めながら、〈嗚呼……この世に満足しているときに死を迎えることができるとは、何と幸せなことなのであろうか……!〉とさえ考えていたのです。

 死を受け入れる気でいたわたくしは、助けの声をあげることもなく、ベッドの上で毛布を被り、誰にも見つからないように息を潜めました。万が一、消防士や施設の職員が助けにきても発見されないようにするためです。それに、このまま燃やされてしまえば火葬する手間も省けるだろうと、何とも不謹慎なことを考えたりもしました。そうやって、火の手が我が身に迫ってくるのを今か今かと心待ちにしていたのでございます。

 そのときです。誰かの叫び声が聞こえたのは——。

 最初は、誰かが助けを求めているか、あるいは消防士が救助にやって来たのだと思いました。わたくしはそのまま隠れていましたが、しばらく経っても声が止まないので、毛布の中からこっそり周囲の様子を伺いました。すると驚いたことに、声の主は消防士でも施設の職員でもなく、見慣れないスーツ姿の男性でした。

 わたくしは驚いて、思わず声をかけてしまいました。〈こんなところで何してるんだ〉と訊くと、彼はわたくしの体を抱え、炎をかいくぐって施設の外へと救出したのです。その後、〈あともう一人、中にいます〉と言い残し、彼は再び炎の中へと入って行きました。もうお分かりだと思いますが、その男性こそがSさん……あなたの旦那様だったのです。

 もしもあのとき、毛布を被って隠れたりなどせず、素直に助けを求めていたら、Sさんは全員の命を救い、彼自身も無事に脱出する時間を十分に確保できていたことでしょう。わたくしが変な意地を張らなかったならば……勝手に自分の死期を決めて変な行動をとったりなどしなければ、あんなことにはならなかったのです。

 わたくしがSさんを殺したと言っても過言ではないのです。それなのに、図々しくも罪の意識から逃れようとしていたのです。どうですか? 殺してしまいたいほど、わたくしのことが憎いでしょう。殺したければ殺していただいても構いません。殺されても仕方のないことをしてしまったのですから……。わたくしは最低な人間なのです。この世に〝望まれた命〟と〝望まれない命〟があるとしたら、Sさんの方は当然ながら前者であり、わたくしの方は言うまでもありません。だからこそわたくしは奥様にどう謝罪すべきか長い間悩んでいたのでございます。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、本当のことを申しますと、わたくしは別にこのような懺悔をするつもりでも、苦し紛れの言い訳を延々と続けるために奥様に電話を差し上げたのではありません。

 ようやくわかったのです。奥様が救われる方法が。そして、わたくしの中に渦巻く感情を晴らすことができる方法が。

 半年以上もかけて考え抜いた結論は、自分でも驚くものでした。あまりにも人の道に反しているものであり、わたくし自身が最も嫌う類の方法でした。

 それは〈お金〉でした。結局のところ、金銭で解決することがお互いに最も合理的であり、最善の選択であるという結論に至ったのでございます。でも、せめてもの言い訳をさせていただくと、これは安易に出した結論ではないということだけはご理解いただきたい。考え抜いた結果がこれなのです。だから、後生ですからどうか許していただきたい。仕方がなかったのです。どんなにあなたが嘆き、わたくしが謝罪したところで、Sさんは戻って来やしないのですから。

 わたくしが他人より優れているものといえば、世間一般の方々よりも多少お金を持っている程度のことでございます。そして、これこそが今のあなたが最も必要としているものだと考えたのです。お金を工面するという点に関していえば、わたくしにはあなたの旦那さんの代わりをすることができるはずだと考えたのです。

 実を申しますと、あなたのことを少し調べさせていただきました。奥様が今、どのような生活をしているか。あなたが旦那さんの生命保険をいくら受け取ったのか。月々の出費がいくらなのか。これから先、働くあてがあるのかどうかさえも。

 あなたも薄々勘付いているとは思いますが、今の生活はそう長くはもたないでしょう。お子様が習い事を続けることも、高校や大学に進学することも難しいでしょう。

 つまりはこういうことです。Sさんの命の代償として、わたくしは奥様をいくらでも支援いたします。必要な時にいくらでも引き出すことのできる銀行口座をお譲りします。訳あって大金を入れることはできませんが、使った分の金額はすぐに振り込まれるようにしておきます。

 その代わりと言っては何ですが、あなたには旦那様のことを忘れていただきたいのです。過去の思い出など綺麗さっぱり捨て去り、これからは再び一人の女性として生きていただきたいのです。縁があれば、別の男性と再婚なさるのも良いでしょう。仮にそのような選択をされても、わたくしから支援の手を止めるつもりはございません——』

 その電話から数日後、Sの妻のもとに、暗証番号の書かれた紙と銀行のキャッシュカードが送られてきた。残高は100万円だったが、試しに引き出してみると、老人の言っていた通り、その翌日には減額分はしっかり補充されていた。

 それから彼女とその子供たちがどうなったのかは、誰も知らない。だが、彼女は間違いなく、一生かけても使い切れないほどのお金を手に入れたのである。かけがえのない夫と引き換えにして——」


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