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空気に流される

”空気に流される”という言い回しは、どちらかというとマイナスな印象を与えるのではないかと思う。

”される”という言葉が受け身の意味を表す言葉であることや、”空気”という言葉が姿の見えないものであることなど、いくつか理由が考えられる。

特に空気という面でみてみると、例えば空気を読めない人を、KYという略称で呼ぶことが定着しているということがある。誰かに言われなくても周りの人たちに合わせるという行動は、しばしば日本の国民性の1つとして挙げられる。

空気というのをどのように定義するのかは難しい。多数派であると考えられる意見で作り出される、”雰囲気”のようなものだろうか。

雰囲気に合わせておけば、最低限のいざこざは回避できる。物事も円滑に進む。面倒な手間をかけなくて済む。余計な争いに巻き込まれなくて済む。

こういったことを頭の中で考えている。

あくまでも多数派であって、それが正解とは限らない。場合によってはよからぬ方向に歩みを進めてしまう原因にもなる。

時には自分の意見を伏せてまで、その空気に従って行動してしまうこともある。

このことを多くの人が経験している。


先日都心に出る用事があった。時間に余裕がったので、カフェで少し作業をすることにした。

そのカフェは多くの人がパソコンを広げて作業をしている。店内には落ち着いた中でも凛とした雰囲気が漂っている。

自分も同じようにパソコンを広げて作業を始めたのだが、とても集中しやすいことに気付いた。作業が普段より明らかに捗るのだ。

通常よく行くカフェは郊外の街中にあるのだが、作業している人は全体の客の半分程度で、あとは会話を楽しんでいる人達が多い。店内もやや賑やかである。

自分の作業に支障があるわけではないのだか、知らず知らずのうちに周りの空気が影響していたのだろう。

これも空気に流されると言ってよいのかどうか。周りの環境に影響されたという方が聞こえはいいのかもしれない。