アルニラムの夢

数日前の夢で、バスに乗っていたのですが、頭文字に矢とつく中学時代の友人が同じバスの廊下を挟んで左側に乗っていました。

私は金星で一度バスを降り、支度をしてまた乗ったのですが、その時、何故かギターケースを抱き抱えるようにしてバスに乗車しました。


バスを降りる前は、廊下を挟んで座っていたはずの友人は、もう一度バスに乗った時には私の右隣に座っていました。(私は左の窓側の席)

ギターケースの中にはギターが入っていますが、クラシックギターではなくエレキギターという印象でした。


私の中ではクラシックギターはケースは重く中身が軽い、エレキギターはケースは軽いが中身が重いという印象です。(ギターの造りや素材が違うので当然ですが。)

今回の夢ではエレキだったのですが、エレキだと木材にプラスして塗装してあったり金属がついていたり、クラシックギターの軽く厚い音に比べると音自体が薄く重い印象です。

その重さというのは、電気を通し歪ませたり、浮遊感をつけたり遊べるということもあり、木材と弦による空間的響きというより、空間的要素にあまり左右されず音に色付けするというようなニュアンスもあります。(電気を通さないエレキの音はかなり細い)
という私の楽器に対する印象もここには入っていたかもしれません。


話は戻りますが、私が今回の夢で持っていたのはケースが布で中身が重く、電気を通して鳴らす楽器でした。

以前、松村先生の本で身体は楽器ケースという例えを読んだことがあるのですが、その内容では地上の身体の例えでした。

私が見たのは夢の中なので、地上の身体というよりは、低次エーテル身体なのかもしれません。


低次エーテルを抱えた私は、胸であり、感情を本体として、これを、楽器と例えます。楽器に電気を通すとエフェクトによって色々な音を出せるという感じで言えば、様々な次元に飛ぶアルニラムを想像します。


私は窓側の座席(友人の左)に座り、布のギターケースを身体の前、足の上に乗せていました。これは少し窮屈でした。

その時、前の席には誰もいなかったのですが、前座席が寝そべるような形になっていて自分の持っていたギターケースがぶつかりそうになっていたので、前の椅子の頭の位置を上に戻しました。

戻すと、ギターケースの幅が出来て足の上ではなく足元に置くことが出来ました。


これは、何かというと、距離感を調整していたというような状態だったかもしれません。

バスの中の座席の調整というのは、バスを集合意識とすると、その中の、自分が座っているより前の席の頭の位置の調整です。

前なので未来の頭ということになるかもしれません。
現在の位置の幅を広く取ることで、エーテルの身体を胸に負担をかけず置けるようにしました。

座席(現在)と前座席(未来)の距離感がかなり狭かった(近かった)のが、前座席(未来)の位置を上に起こすことで現在に余裕ができた、ということの解釈の一つは、未来の方向性の調整をしたということだと思います。
現在が窮屈だったので未来の位置あげをしたということになります。(時間を円に考えるとこの逆とも言えます)

その後、バスを降り、家の中で人形の胸の中の白い液体と黒い液体について教授に教わりました。
私は助手であり、娘でもあるという設定のようでした。

その家はキッチンとリビングが繋がった、事務所のような場所だったのですが、霞という名前の新しい先生が面談に来てソファに座っているというシーンに切り替わり、私はお茶を出そうとキッチンに行きました。

キッチンに行くと、洗い物が溜まっていて、洗われているように見えるものも、教授(父)の話によると、洗っていないという話でした。

その時、食器の間に綺麗に半分に切られた魚がありました。
身も(切り込みの入ったマンゴーみたいに食べやすく)ほぐしてある状態の焼き魚を私は水場に落としてしまい、すぐに拾いました。

教授(父)が好きだったはず、と思い、「間違って落としてしまったから皮は食べないでね」と私は言いました。
(中身は綺麗に切られていて美味しそうに見えたので食べるだろうと思っていた)
すると、教授(父)は「そこは美味しくないから(全部)食べないから大丈夫」といいました。
そして、それより霞という先生に早くお茶を出してくれ、と言いたげでした。


後半の解釈は難しく、色々浮かびます。
切り分けられた焼き魚を水に落としてしまい、父に食べないと言われたのは、私の考えが面白くないから食べないと言われたのではないか、とはじめは思っていたのですが、夢の中で嫌な感じがしなかったのでどう解釈するべきか悩みます。

複数、解釈できると思います。

以前、母にケーキを持っていき受け入れられなかった時、何となく噛み合わない、理由がわからない為の孤立感のようなものがあったのですが、今回の夢ではそういった感じがしませんでした。

食べないと言われて、傷つかなかったということでは、教授(父)は焼き魚の反対側の部分をすでに食べ終わっていたのかもしれません。

霞(霞は空気中の水滴、ぼんやりみえるもの)という先生が来たということからしても、美味しそうに見える物質は残し、別の部分を食べていたということかもしれません。

洗物も綺麗に見えて実は洗われていないという夢でもあり、解釈の視点を変える必要がありそうです。

アルニラムはアラビア語の『(真珠の)連なり、数珠繋ぎにしたもの』という意味の語源から来ているらしいので、視点の調整をして連なりを作れということなのかとも思います。

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