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「今、此処に在ることに感謝」 #10

「継続こそが力なり」

という記事を昨日書いたわけだが、

なぜ継続することは難しいのだろうか?

それを掘り下げて見たいと思う。

今現在続けていることで、数年単位、数十年単位で続けていることはなんだろう?

またそれと同時に、今までしてきたチャンレンジは何個あるだろうか?

そして、それを途中で辞めてしまった、もしくは諦めてしまった理由とは?


継続していることと、チャレンジしてきたことを比較した時に、圧倒的に継続していることの数の方が少ないのではないだろうか。

ここからも継続することの難しさというのは実感することができる。


では、継続できない理由とは、

それは、継続する明確な理由がなくなったからであろう。

例えば、私でいうとギターを弾けるようになったらいいなという願いを何度か抱いたことがある。

しかし、ちょっとかじってはすぐに辞めてしまっている。

ずっと継続して練習続けていれば、今頃数曲は楽譜を見ずに弾き語れるくらいの腕前にはなっていただろう。

しかし、継続することが出来なかった。

それはなぜか。

上手になる過程の中で壁を感じ挫折したにすぎない。

ここで、ギター奏者になるんだ!とかギターを弾けたら女の子にモテそうだから、絶対弾けるようになるぞ!とか強い目的意識をもてていれば、もしかしたらその壁というのは乗り越えられていたのかもしれない。

しかし、そこまでの強い思いはなく、なんとなく弾けたらいいな〜くらいの気持ちだったに違いない。


また最近でいうと、プログラミングも途中で投げ出している。

こちらに関しても、ある一定のところで壁を感じ、そのまま徐々に遠ざかり、結果的には学ぶことから向き合わなくなってしまった。

ここで、プラグラミングで食べていくんだ!とか、プログラミングを学ぶことへの必要性を感じていれば、いまもまだ継続していたのかもしれない。

しかしそこまでの必要性はなく、なんとなくコロナ禍にせっかくだから何か学ぶ機会を作ろうと始めたくらいの軽い気持ちだった為、すぐに辞めてしまった。


では、続けていることはなんだろうか。

数年単位、数十年単位で続けていることはなんだろうか。

思い返してみるとないではないか。

仕事に追われとか、子育てに忙しくてとか様々なことを言い訳にして、何も継続していない。

そうなのである。

何かを継続していくというのは非常に難しいことで、そこには圧倒的な目的意識が必要なのだ。

もっというと、継続していることがないのではなく、継続できていることはもうすでに自分の人生の習慣となっているため、思い返してもそれを意識して継続しているぞ!という感覚にはならないはずだ。

例えば、文章を書く人であれば、日々PCに文字を書き起こす行動というのは、これを継続的にやっているぞ!とは思わないはずだ。

ここで言いたいことは、「継続こそは力なり」なのだが、意識して継続している範疇においてはそれはまだ挫折の対象になりうるわけで、

力にしようと思えば、それを日常のルーティーンとして当たり前のように習慣化されているかというところまで持っていかなくてはいけない。

先の例でいれば、よしギター練習するぞ!と思っているうちは挫折する可能性のある範疇だが、毎日ギターを触ることが習慣化しているのであれば、それは「継続は力なり」で上手になっているに間違いない。

ポイントしては、いかに自分の日々のルーティーンの中、呼吸をするかのように違和感なく習慣化できているかということである。


つまるところ「継続こそは力なり」というのは、

「継続し、習慣化させることこそ力なり」となるだろう。


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