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もっとも良きもの

ぼくの人生をふたつに分けるとしたら、こどもが産まれる前と産まれた後にわけられる。

祖父を早くに亡くした父は、九州の大学を卒業したあと、地元に帰ってきて就職した。
若くして祖母と妹、そしてまだ20歳になりたての妻を養わなければならなくなったので、20代で家を建てた。
それからは、いささか強権的な家長として君臨していた。そして姉を筆頭に四人のこどもの父となった。

読書やプラモデルを作ることが好きで繊細な父は無理をしていたのだろう。嫁姑問題や、こどもたちのことでピリピリしていたものだ。
彼の発する舌打ちに、家族はビクビクしていた。
おそらくそういったことが原因なのだろうか、僕自身人の顔色を極端に気にするこどもになった。

関西に住んでいたが、生まれ育ったのは九州という祖母と父にとっては、当時はまだ当たり前だったのかもしれないけれど、長男として産まれたぼくは姉と比べるとかなり甘やかされて育った。

その結果、なかなかに甘ったれた息子が誕生した。スポイルというやつなのか、意見を持たず自分の頭で考えることができないこどもになった。
姉は甘やかされるぼくとは対照的に祖母から色々な手伝いを仕込まれたり、女だからこれをしてはだめ、あれをしてはだめと言われて育てられた。
そしてその不公平から来る鬱屈は当然ながらぼくへと向けれるようになる。
当たり前だ。

そのまま順調に、ぼくは何か大事なものが欠落した人間になっていった。自己愛ばかりが強く、やりたいこともなく、自分で何も決められない少年期。いってみればクズである。
奨励会を年齢制限で去り、その後に前代未聞のプロ編入試験を経て、プロ棋士となった瀬川英二さんは著書の中で、「自分はクラゲのようだった」と自らの幼少期を書いていたのを読んで、自分もそうだったと腑に落ちた。
まさに漂うクラゲだった。

そんなままに頭で考えずに、表面だけ取り繕って生きていると、どこかでツケがやってくる。
20代半ばで、自業自得の袋小路に陥ってしまった。
今になって自分がどんなにひどかったのかよくわかる。
選ばなければならないものを選ばず、責任というものも持たず、主体性がないから甘ったれた愚痴ばかり吐く。
昔の職場でパートのおばちゃんに言われた言葉を未だに覚えている。

「悲劇のヒロインちゃん」

と。

それから幾分か時間が経ち、住むところも変わった。
住み慣れて地元を出て、知り合いのいない場所に住んだ時に、自分が思っているよりもほっとしたのを覚えている。
親と兄弟の手前、自分は○○しなければならない。という呪縛みたいなものに意外と縛られていたことに気が付いたのは、地元を出たからだ。そうでなければ一生気が付かなかっただろう。

そして何年かあとに妻と出会い、子どもを授かることになった。

検査でこどもの心音をはじめて聞いたときに、自然と涙が流れた。先に涙が出て、感情がそのあとに慌ててついてきたような感じだった。自分でもあの涙は神聖なものだったなあと思う。

自営業だったので、妻の健診にはすべてついていって画像を見るのが楽しみだった。

経過は順調で、予定日きっちりに元気な息子を産んでくれた。

はじめて自分よりも大事なものがぼくにできた。これは本当に人生の意味を変えるくらいの衝撃だった。

はじめて、生きる意味を持つことができた。

なんのために働くのか。なんのために健康でいなければいけないのか。金を稼ぐ意味。休日の意味。
色んなことをぼくに教えてくれた。

死ぬほどしんどいこともあったけれど、妻とふたりで育てようと思いなんとかここまできた。
ぼくは今の父親としての自分が好きだ。かれが僕を育ててくれたのだと思う。
彼が産まれたときに、ぼくはできる限りそばに居たいと思った。
そのための時間を捻出し、何とか忙しいなかこどもと関わりながら暮らしている。
それは流されてきた自分がはじめてと言っていいくらい、きちんとした意思で選んだ生活だ。

夏休みの今。
毎日家でのんびりと過ごしている息子とテレビゲームをしたり、外に遊びに行き、ごはんを作り、宿題を見て。
来年度には小学6年生になる。一緒に遊べる時間は多分あまり長くはなく、これからは見守ることしかできないだろうけれど、彼との生活は自分の人生を意味のあるものにしてくれた。

どんどんと自分に似てくる、ソファでアニメを観ながら、ウルトラマンのフィギアで遊んでいる姿眺めながら。




#自分で選んでよかったこと

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