ごめんだよ。 発言や行動が、 顔や体つき、名前、経歴によって 意図せぬ形で、それも、 無意識のうちに判断されてしまうことは。 終いには根も歯もない噂となって 謎に力強く足早にひとり闊歩を始めることも。 相手もわたしも人間だもの。 そんなこともある。仕方ないことだと思う。 実はそれもコミュニケーションの 面白いところでもあると思う。 だけれど、 可能な限りそんなことは避けたいと、わたしは思う。 そもそも、なぜ人は何者かを問うのか。 よく考えてみると、 どこへいってもど
過去の思い出をほっこり振り返るはずだった。 「ビールの泡を復活させるためには 割り箸の束をグラスに突っ込むとよい」 と聞いて、内緒で父親のグラスで試したこと。 「習字の筆を洗うには ペットボトルを使うと便利」 と知って、あらゆる形のペットボトルを 引っ張り出して、洗面所でひとりでに 試行錯誤したこと。 放送翌日の学校は裏技の話で持ちきりで、 幼い頃のバイブル的存在だった 火曜夜7時「伊藤家の食卓」を ぬるま湯に浸りながらゆったりと思い返す予定だった。 が、思わ
あいみょんってなんだかずるい。 例えば、歌詞に過激な表現が滲んでいてても シラっとなりがちなセリフ曲も タモリ倶楽部で春画の魅力を語っていても なにもかもがどこか文化的で 時に高尚にすら感じるあれは何? 語感を大事にしていて これまでのアルバムのタイトルが 全て14文字という気まぐれのようなこだわり。 これだけ売れてもなお週に数曲作っていて ストックが数百曲あるというエピソード。 基本的に夜10時には仕事を終えるんだっけな、 夜という時間を大切にしているんだねきっと。
さて、いざ自己紹介がてら文章を書こうにも 前提情報(名前・年齢・性別・出身)を抜きにすると ピタッ!と筆が止まるもんだ。 いかに自己紹介を定型文で済ませていたかがわかる。 ◯◯と申します。 △△出身の××歳です。 好きな食べ物は□□で、趣味は**です。 ひぃ。なんて簡素な定型文。効率化の権化か? なにか違う方法で、 「簡単で」「わかりやすく」「幅広く」 自分という人間を伝えられるものはないものか。 参考にするのは10歳の少女1年前、Twitterであるカルタが話題を