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ディオール展とDiorと私

ディオール展に行こう。
そう思ったのは、SNSに流れてくるたくさんの投稿を目にしたからだ。
完全にミーハーの行動である。
ちょうど東京を訪れる機会があり、新幹線の中で当日のキャンセルチケットを手に入れようと必死に予約画面を更新し続けた。
その甲斐あって、見事当日午後四時のチケットが手に入った。

大盛況の会場で特に見物客の視線を集めていたのが、日本と協業で作られたコレクションだった。
「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」をモチーフにしたドレスが、まず来場客を迎えてくれる。
2007年にガリアーノが発表したコレクションである。

マダムバタフライ(蝶々夫人)がそれに続く。

マダム・バタフライのあらすじはこうだ。

アメリカの海軍士官であるピンカートンは軽い気持ちで日本人の少女、蝶々と結婚する。
蝶々はキリスト教に改宗し、日本人であることをやめてまでピンカートンと添い遂げるつもりだったが、ピンカートンは任期を終えるとアメリカへ戻り、祖国で別の女性と結婚してしまった。
数年後、その事実を知らされた蝶々夫人は、ピンカートンの妻に自分とピンカートンとのあいだにできた子供を引き渡すと約束したのちに自害する。
子供に目隠しをし、日本国旗を持たせて。

モダンな女性のエレガンスを追求し続けてきたDiorのコレクションとして、私にはいささか衝撃的だった。
少女・蝶々はモダンでもなければエレガントでもない。
欧米の古い偏見にもとづくフェチズムが反映されたアジア女性である。
幼い顔立ちで不思議なイントネーションの言葉を話し、KIMONOという民族衣装を身に着けて芸をする。
今でも日本の女性は無遠慮な偏見に晒されるが、それをより強固にしたような存在だ。
ところが、ガリアーノのドレスからは夫の正妻との結婚を祝福し、自らの誇りのために自害する女性の姿は見えてこない。
己の道を貫き通すがごとく大輪の花が、エネルギッシュ過ぎるのだ。
一方で、夫のために改宗し、自らアメリカ人であると名乗るほどの健気さは、着物をドレスに仕立てることで存分に表現されているようにも思う。
Diorのエレガンスとは、己の道を自ら切り開く自立した女性のエレガンスなのだと言われた気がした。

日本との協業によって生まれたドレスは他にもある。
薄紅色が美しい、桜のドレスだ。
Diorにとってピンクと灰色は特別な色で、クリスチャン・ディオールの生家の壁面の色だったという。

展示の後半にディオールの庭に見立てたブースがあったが、床に鏡を敷いてドレスの中が見えるようになっている工夫には感心した。

客が歩くのは鏡面の間をのびる小径である。
そこにあるのはトルソーのはずなのだが、まるでティーパーティーの中を通り過ぎるような気持ちになった。

圧巻だったのが真っ白なトワルの部屋だ。
白いトワルが天井までびっしりと埋め尽くしていて、とても一つ一つを鑑賞できるようにはなっていない。
鏡の天井には客が歩いている姿が映り、どちらが床なのか写真に撮ると分からなくなってしまう。
出口の上に展示されたトルソーにはプロジェクションマッピングによって映像が投射され、その最後に「DIOR」の文字が浮かぶ。

生家の壁の色、美しい庭、レジスタンス運動に加わった妹の逮捕といった、一見デザインとは無関係に見える事柄が、デザインに昇華されてゆく。
シャルル・ド・ゴールがイギリスで打ち立てた亡命政府に呼応して、フランス国内で活動をしていたのがレジスタンスである。
独裁者に対して抵抗する女性の姿が、ディオールには毅然として力強い存在に見えたのかもしれない。
第二次大戦中、贅沢過ぎると批判されながらもふんだんに布地を使ったドレス、細い腰を強調するかのようなバージャケットは、もしかするとそのほっそりと窄まったウエストを支えたかったのかもしれない。

ジョージアから逃れてきたデムナ・ヴァザリアがウクライナ戦争がはじまった後に発表した雪の舞う演出の中でのコレクションや、アレキサンダー・マックイーンの姉の夫が、姉に対してふるう暴力を目の当たりにしてきた怒りを表したコレクションも、デザイナーの経験や感情が服というかたちで表現されている。

私個人の意見としては、自分が服を買う際にそうした背景まで加味することはない。
好きか、似合うか、着心地は良いか。
強く惹かれるものがどんなに泥臭い過去を持っていたとしてもかまわない。
革命のための服を着て、権力者の男にしなだれかかる女性を見たところで私はなんとも思わない。
動いているシルエットが美しい服で、ソファーにふんぞり返って使用人を呼んでいる女性がいてもいい。
戦争にゆく国の人が、反戦を訴えるデザイナーの服を愛用していてもいい。
それをふさわしくないとかグロテスクだとか批判することはできるけれど、デザイナーの思想に心から共感していなければその服を着られない窮屈さのほうがずっと私にとって不利益だ。

私は当面、Diorを持つことも着ることもないだろう。
全身をDiorが考えるエレガンスで着飾りたいとは思えないし、動いているときにこそ美しいというその「動き」には貴族的な所作が求められるような気さえする。
そもそも庶民がオートクチュールなど頼むことはないので、それはそのとおりなのだと思うけれど……

デザインの背景にあるものを知ることが、翻って私の選択肢を狭めることもあるのだろう。
私の考えとデザイナーの思いが折り合わずに、プロダクトを愛し続けることができなくなることも十分に考えられる。
ディオール展だけではない。
少し前まで考えられなかったくらい、あらゆるブランドのデザインや背景を知る機会が増えている。
五月にはゴルチエのファッションフリークショーもある。

私の考えが変わるのか、変わらずに着られない服が増えるのか。
ディオール展は私の服へのスタンスに投じられた最初の一石になるのかもしれない。

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