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善悪の二つ

まだまだ暑いですね、今週は佐々木です。

9月半ばを過ぎても蝉が鳴いています。
蝉すら避暑地を探しているような気すらします。

正しさほど暴力的になるものはありません。
「福田村事件」という映画を観て、そんなことを最近考えていました。

何が良くて、何が悪いか、どこまで一貫して言えるか。

善悪が、私には完全にはわかりません。と、言い切ったのが親鸞聖人です。

世間を賑わす人気のカリスマはたいてい、善悪の基準がはっきりしていて、俺が正しいと、はっきりものを言える人です。

相手の間違いを指摘し、論理を破綻させるドヤ顔は、見ていても気持ち良いですもんね。
「俺は正しい」と言い切れる人は、格好良いですし、付いていきたくなります。信用したくなります。

しかし親鸞聖人は、状況が変われば、正しさと間違いがひっくり返る、その現実が、いかに真実から離れたものであるかを見つめ続けられました。

だからこそ、「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」という言葉が歎異抄に残っているのではないでしょうか。

「弟子一人も持たずそうろう。」

という言葉も、善悪を見つめ続ける中に出た言葉だと思います。

現実には、親鸞聖人には弟子はいました。

善悪がどこまで正しいのか、衆生がどれほど不実であるか、を見つめ続けられた親鸞聖人の背中に感銘を受けた人が多かったことは何となく想像がつきます。

しかし、親鸞聖人は、「俺が正しいから人が付いてくるんだ」
とは考えませんでした。

「仏縁によって、ご縁によってここに集まってくれているのであって、私が導いたわけではない」とはっきり言いぬかれたお方でありました。

我々は状況によって態度が変わります。

目上の人にはゴマをすり、目下の人にはゴマをすらせます。

目下の人が目上になったらまたゴマをすり、自分に必要のない人は切り捨てることさえあります。

「損か得か、人間のモノサシ」とは、相田みつをさんの言い方ですが、

その感覚を当たり前と思う中に、慈悲という心が果たしてあるのか。。。

親鸞聖人が目指したのはおそらく、師匠の姿。
法然聖人という師匠は、相手の身分によって説きぶりが変わりませんでした。

遊女は身分が低いから、とか、大臣はこの国で一番偉いから、とかいう理由で説法の仕方が変わりませんでした。同じ話をしていました。


お念仏申しましょう。そう阿弥陀様が願っていますよ。


ただひとすじに、生死出(い)ずべきみちを話していた姿に親鸞聖人は隠れて涙していたのではと想像します。

どんなものも、共に、阿弥陀様に願われ、仏になっていくべき同行なのだから、話の内容を変える必要がなかったのです。そこに、上も下も、右も左もなかったのです。

だからこそ、この不実な私が救われていくのだと、言い切れるのが、浄土真宗というご法義でありました。

今は、煩悩と言う大病を患っている生き物ですから、都合によってどうしても意見が変わります。

しかし、悟りの身になれば、慈悲そのものを体現していきます。

慈悲の円満した姿が、自他ともに幸せな境地です。
互いに相手を思い、一方の苦しみはお互いの苦しみです。
自利利他円満といわれる仏様の境地とは、そのような溶け合う世界だそうです。

その境地を慕い目指し、だからこそ、そこからいかに離れた現実であるかを見つめ続けたのが親鸞聖人でした。

ですから、浄土真宗こそ一番正しいんだ、と、こぶしを握り締めることも、必要のないことなのでしょう。

正しさを見失う私だからこそ、お念仏という真実が届き続けているのではないでしょうか。

称名

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