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季刊誌『一味』と最近思うこと

夜になると虫の声が涼やかに、秋の気配を届けてくれます。
皆さまいかがお過ごしですか。今週は岩田が担当させていただきます。

画像は、行信教校にご縁のある方々が執筆くださっている『一味』という季刊誌です。(ピンぼけが直せずスミマセン)

内容は、ご法話から、お聖教の解説(現在は親鸞聖人のご著作である「正信偈」とご和讃の解説シリーズ)、仏跡や真宗寺院の案内、コラム、仏弟子や妙好人を描いた漫画など、バラエティに富んでいます。
30頁ほどの小冊子ですが、浄土真宗のエッセンスがギュっと詰まった味わい深い内容です。
行信教校に入学した初年度は無料で配布されました。それ以降は購入せねばならないのですが、「ここでしか読めない濃さ」に一年目ですっかりハマって、継続購入中であります。
 
創刊は大正2年(1913年)。行信教校の創立者のお一人である利井鮮妙和上のご法話が掲載された『真宗法話』を始まりとして、後に『一味』と改題されたそうです。戦争によって一時休刊となりましたが、多くの方々の情熱とご尽力があったと窺います、戦後の昭和21年9月に再刊され、最新号は769号を数えます。
そんな『一味』の歴史と、受け継がれてきた信念を教えてくださるのは700号記念誌での、現在の校長先生による〈あとがき〉です。
さらにお言葉は続きます。

およそ100年に及ぶ「一味」の700号を貫いてきた精神は、親鸞聖人が明らかにされた、阿弥陀仏の智慧と慈悲の心を一人でも多くの方に伝えたいの一念でした。このこころは800号、1000号と伝えてゆかねばなりません。
(中略)
浄土というと、死者の国としかうけとめられない現代です。しかし、教典に明かされる浄土は、さとりの智慧に映じた、天地草木のすべてが輝く真実の世界であります。現代ほど人間、そして「いのち」が輝きを失った時代はないといわねばなりません。この闇が人間の愚かさと傲慢が招いたことを知らせ、真の人間性を回復せしめるものこそが浄土であると信じて、この書を刊行いたしました。

『一味』700号記念誌 「いのち」浄土に輝く より

仏教の世界観を通して見た「いのち」のあり方、智慧の偉大さ、お慈悲の温もり。そして、時代や場所によってコロコロと変化する価値観とは真反対の、絶対的な価値観に身を置いて生きる仏教者の芯の強さと厳しさを、感じさせていただくところです。
 
ところで昨今、「宗教」が報道に取り上げられることが多くなっています。といっても、宗教そのものの本質に切り込んでいるのではなく、宗教団体という組織の性質に関する議論・報道が多い気がしますが…。
歴史を振り返れば最近の事件に限らず、宗教という名の下に大小様々に悲劇的な出来事が繰り返されてきました。

…オカシな話です。それって本当の宗教なのかな?
(「宗教の名の下に」と表現している段階で、背景にあるベツモノを想定してしまっているワケですが)
『一味』掲載の先生のお言葉を思い浮かべながら、改めて「宗教」について考えています。
 
「宗教とは何ぞや」…宗教学者の数だけその定義は存在すると聞いたことがあります。
それだけ広範で、切り口によって全く違う顔をもっているということなのでしょう。
バッサリと「超自然的な存在への信仰」と表現されることもあります。
そう聞くと、科学的根拠に基づく客観的な思考を重視する現代人には、受容れられないかもしれません。
「自力で人生を切り拓いていくことができれば、宗教に頼る必要なんてない」
と考える方もあるでしょう。
 
でも、割り切れない矛盾を抱え、理屈や筋が通らない存在が私です。
ちょっとしたことで内面が揺らぎ、状況に応じて良くも悪くも変化します。
今、充実した人生であっても、思いがけない出来事によって一瞬にしてひっくり返る、不安定な存在が私です。
そんな私の存在を棚上げにして宗教を向こうに眺めて議論することは、本質から離れていく気がしてなりません。
 
少なくとも宗教には、そういった存在をすっぽりと包み込む、包容力が具わっているはずです。(と、思いたい)

人間の不安定さにつけ込んでさらに不安を煽ったり、従わない者に罰を与えたり、他宗教の者を攻撃したり、信者さんやそのご家族が生き辛くなったり、世間から引き離したり…などという行いが教義によって為されるのは、偽りの宗教と感じてしまうのですが、いかがでしょうか。

実際は、↑ こんなに分りやすくはないのでしょう。それでは誰も見向きもしませんからね。苦しい時、他の誰が見捨てても、理解してくれなくても、その教団の人だけは手をさしのべてくれるのかもしれません。
しかし、何を目的としているのか、見極める目を養う必要があるのでしょう。
でないと、苦悩の中によりどころを見つけたつもりが、自他ともに昏迷を深めてしまうことになりかねません。
 
今、私が聞かせていただいているお念仏の教えは、私の欲を満たすような教えではありません。ですから、すんなり気分良く聞くことが出来る教えではありません。
では、どのような教えなのかといえば、自他ともに安穏な境地に至ることを目標とする教えです。我欲を捨てることが出来ず、他の生き物のいのちをいただいて生きるしかない私には、到達することなど出来ない、仏様の境地であります。

すんなり聞けない理由がもう一つ。
自分中心にしか物事を見ることが出来ない。そんな私では知り得なかった、どうしようもない私の姿を、教えを聞くうちに知らされていくのです。
それは仏様の目を通して見た私の姿です。
なんとも耳が痛い…どころではない、厳しさがあります。

しかし、有難いなぁと思わせていただくのは、仏様というのは、私の本質を見抜きながらも諦めず捨てず、いや寧ろ本質を知るが故に、そんな悲しい生き方をしていてはいけないと心を砕き、仏様とはほど遠い存在である私を仏にしてみせると願いをかけ、はたらきかけてくださっているのです。
 
自分だけでも楽になりたい、苦しみからのがれたい、という自己中心的な本能を垂れ流すのではなく。自己中心的でしかない悲しい自分に気付かされ、同時にその自分が仏様の願いがかけられている存在であるとも知らされる。
ではその本能を抱えながら、辛いこと悲しいことに遇わねばならない人生の厳しさを、どう乗り越えて生きていけばいいのか。
しなやかに逞しく生きる道を、仏様にたずねながら歩むのがお念仏の仏道です。
 
その仏道には、先に立って歩んでおられる先生方・先輩方がいてくださって、その背中を追いながら歩んでいける安心感があります。
畏れながら親鸞聖人もその大先輩であり、同じ道を歩ませていただく有難さを感じています。
 

〈 およそ100年に及ぶ「一味」の700号を貫いてきた精神は、
親鸞聖人が明らかにされた、阿弥陀仏の智慧と慈悲の心を一人でも多くの方に伝えたいの一念でした。
このこころは800号、1000号と伝えてゆかねばなりません 〉


 
親鸞聖人が導いてくださったお念仏の仏道。
教えを聞いて私が賢くなったわけでも、偉くなったわけでもなく、ただその仏道を歩む者になっただけではあります。
しかし、微力ながら伝えていかねばならない。
改めてそう思わされた昨今の世情と、校長先生のお言葉でした。


称名



追記 
『一味』700号記念誌の一部をご覧いただくことが出来ます。
また、「法話紹介」のページからは『一味』通常版のご法話もお読みいただくことが出来ます。ご興味のあるお方は ↓ からどうぞ!


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