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ある日の出来事

一見仏教とは関係のなさそうな日々の出来事の中に、じんわりと教えを感じることがあります。日常と仏教がかけ離れたものではない。むしろ教えに日常が支えられている。そう噛みしめる瞬間があります。

今週は愛知の岩田が担当です。

私が医療従事者になった頃、病院や薬局の待ち時間といえばテレビがお伴でした。が、長い待ち時間となるとテレビ効果は薄れ、時には厳しい視線やお叱りを患者さんから受けることがありました。
お急ぎの方、体調のすぐれない方もおられるわけで、申し訳なさを感じつつ…「焦って間違えないように、見落とさないように、集中して」と自分に言い聞かせながら、極力素早く業務を進めていくしかありません。
年数だけはベテランになった今も私の焦りは変わらないのですが、お伴はテレビからスマホへと変化し、待ち時間を隙間時間活用に充てる方が増えてきているようです。

先日、お薬の準備でお待たせしているご婦人のスマホからかすかに音声が聞こえてきました。お待ちの方はお一人だけだし、まぁいいか。と調剤をしていると、なにやら聞き覚えのある声が…。
(能登のニュースっぽいな。これ誰の声だっけ?)…無意識に記憶を辿っていました。←全然集中できてない。

頭を切り替えて一旦集中。
お薬をお渡しし、ひとしきりお話しした後「さっきご覧になっていたの、なんの番組でした?」と聞いてしまいました。
これもモヤモヤを晴らし、次の業務に集中するためです 笑

「聞こえてた?ごめんごめん。これよ」と親切なご婦人は動画を再生して見せてくださいました。

声の主は能登半島地震の被災地に派遣されている医師で、私にとっては昔の上司であり、尊敬する精神科医の先生でした。
様々な支援が必要とされる中、先生は被災された方々の「心のケア」にあたるため、第一陣として現地入りされていました。東日本大震災の折にも被災地で活動された経験をお持ちです。
「支援が被災地の全員に行き届くような仕組みを作ることが役割です」
そうインタビューに答え、懸命にその方策を探っておられる厳しい横顔は、昔とお変わりありませんでした。

途方もなく大きな、今後どれだけ続くか分からない、でも継続していかねばならない大変なお仕事です。
そして何よりも、ままならない人間のこころを相手にされるのです。困難の連続でしょう。それでも、理想論を口にされているのではなく本気で実現するための第一歩を踏み出されているんだ。以前のお仕事ぶりからそう思わされる先生です。

先生のような方々が、数日間ずつ交代しながら現在被災地に入られています。

業務が一段落をした時、同僚女子にその先生のことを話しました。
とっても真面目で凜とした彼女。おそらく様々な問題意識を持っています。
私は私で、被災地に飛んでいって何か出来ることをしたいのに、そうは出来ていない自分に悶々としたものを抱えておりました。

話のさわりだけ聞いたところで彼女は呟きました。
「思っているだけではダメなんですよね。その先生みたいに行動される方が世界を変えていくんですよね」と。
ハッとさせられました。

こんな言葉を聞かされると、私は人間の格闘と限界、仏様のお慈悲を思わずにはおれません。

私達は当たり前の日常が変わらず続いていくかのような錯覚に陥ってしまいますが、そうじゃないんだと思い知らされる出来事(災害、戦争、犯罪、事故、病気…)と常に隣り合わせで生きています。日常をズタズタに壊され、苛酷な体験をされた方々の言葉や姿がそのことを教えてくださいます。

仏教では諸行無常と説かれますが、頭では理解出来ても心で受け止めきることはできません。諸行無常の事実を「はい、そうですか」と受け入れることが出来ないから、苦しいんです。なすすべもなく立ち尽くすしかない事態に直面したとき、苦悩し悲歎するのは人間の自然な心の動きです。

そして、悲嘆に暮れる人々に無関心ではいられない人々がいます。その人々にもどうしようもない苦悩が生じます。

どれだけ苦悩を分かち合いたいと思っても、他者の心を分かりきることは出来ません。
前々回、那須野さんが「分別の中でしか生きられない私の現実」としてその悲しみを語ってくれていました。
同じ体験をしていたとしても、思いを一致させ肩代わりすることは出来ないのです。
人間の孤独が厳然として存在します。

もう一つの苦悩は、思うようには他者を助けることが出来ない、その悲しみです。
経済・資源・人的な制約や、周りとの調和が私達の社会にはついて回ります。あっちを立てればこっちが立たず、の現実もあります。立て直した生きる基盤も、いつまた同じかそれ以上の被害を受けるかもしれない。
そして支援者自身もいつどうなるか分からない現実を生きています。
「もっとああすればよかった」「もっと頑張れたはずなのにやらなかった」…自責の念や心残りも、懸命に向かい合った人ほど背負うことになります。

全てを完璧に仕上げることは出来ない、娑婆で生きる人間の限界があります。

そうした人間の姿を、我々が仰ぐ阿弥陀様というのは全部見通されています。だからこそ、本当の救済を完成する必要がありました。

阿弥陀様とは他者の幸せを心から願い、苦しみを自分の痛みとして感じることが出来るお方です。それ故に、苦しみを完全に抜くための方法を思案されました。その果てしないお慈悲の心は生きとし生ける全ての者に向けられています。
今生きることが辛いお一人お一人の方にも。

その阿弥陀様が完成された本当の救済とは、苦悩に喘ぐしかない者を安らぎの境地に至らせ、そして他の者をまた安らぎの境地へと導く仏とすることでした。

阿弥陀様とはその実行力を持ち、私達を変え成す仏様でありました。

私は思い直します。
苦悩は苦悩のまま終わるのではない。苦悩を味わうが故に阿弥陀様のお慈悲に初めて気付かされ、苦悩がありながらもどこか腹を括って生きていくことが出来るのだと。
その中で、謙虚に出来ることをさせていただこうと。

何気ない同僚との会話の中で、これまでも幾度も聞かされてきたお慈悲の心が急にリアルに噛みしめられたひとときでありました。
この大切にしたい瞬間瞬間が訪れてくれるようになったのも、阿弥陀様のおはたらきなのでしょうね。
どこまでいっても阿弥陀様のお慈悲の中の日々を、今生きています。


今週は一段と寒さが厳しくなるようです。
皆さまどうぞお身体お大事に、お大事にお過ごしください。

南無阿弥陀仏

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