見出し画像

イヌダさんトリダさん

こんにちは。今週は那須野です。
小難しい話は友人たちにお任せするとして。
続きを楽しみにしてるという声をいただいたように思うので
(勝手な思い込みでなければ)、その後の話をば少し。

前回の投稿で、(詳しくはまた今度)と残しました。
ニワトリ一羽、狐に持って行かれた話です。

かと言ってあまり詳しく記すと数千字になるので、端折ります。
皆さまイマジネーションを働かせてください。

5/5 次男誕生日 孵卵器とアローカナの卵6つプレゼント
6/1 全ての卵が孵化
次男は其々に名前をつけ、毎日餌やり、小屋閉め、可愛がる

12/10
7:00am ピーちゃんの訃報の知らせ
7:05am 母(私)家を出る
7:50am 次男ばあばに小学校に送ってもらうも、涙が止まらず一旦帰宅
10:00am じいじと小屋の修理をして気持ちを整える
11:00am 小学校登校
16:30pm 帰宅
18:00pm 母(私)と会話

タイミングよく(?)胃腸炎で学校を休んでいた中学生の長男が、以上の内容を逐一LINEで連絡してくれました。
私はその日も行信教校に向かっていたので、今にでも折り返して帰宅しないとならんかなと、電車が停車するたびに思っていました。
しかし長男のリアルタイム報告で、ある程度の状況を把握できたので、その日は講義を受けることにしました。

帰宅して次男の様子を心配しつつ話してみると、

「悲しかったけど、学校で考えててん。もし僕が死んだら、お浄土でまたピーちゃんに会えるって。」

その後次男と相談し、次男の案でピーちゃんには「陽丸」という法名(お釈迦さまの弟子という意味です)を付け、次男初めてのお導師(真ん中で儀式を進める人です)を勤め、ピーちゃんのお葬式を執り行いました。

ピーちゃんは当時群のリーダーで、雄叫びも上手でした。
もしかしたら、果敢に狐に向かっていったのかもしれません。

ピーちゃんは、私たちの感覚では死んでしまったと思っていたけれども、本当は私たちにお念仏させるために、そのいのちをかけてこの世に還り来たった菩薩さまであったのかもしれません。(これを真宗用語で還相回向といいます)

2週間ほど後に、卵を探していたら床下からピーちゃんの亡骸が発見されました。
次男が後に言うには、

「ピーちゃんが卵の場所を教えてくれたかなと思っとる」

とのこと。
その後産卵の場所を点々とするメス、
「その割に後のことは教えてくれんなあ」
と斜めな返事をした母はこの私です。。

さて、鶏が往生するかということについて。
信心得たかも、念仏申したかもわからん鶏が、往生するんかいな、という。

「次には法を聞ける人間になって生まれて来いよ」
というのがスタンダードな考え方かも知れません。
しかし、阿弥陀さんは十方衆生を救うとおっしゃっています。
十方というと、全ての方向です、漏れるところはないということです。
ほんなら、人に生まれたから法を聞けるというのは少しハテナなんです。
こんなこというと怒られるかも知れませんけど。

その次男、車で片道25分ほどの場所にあるボルダリングに通ってます。
その道中、落語を聞いたりラジオを聞いたり、音楽聞いたり、法話を聞いたりしてます。
ある法話を聞いた時の感想。

「お浄土は本当にあるのか。」(不安になったようです)
「犬や鶏は往生しないのか。」(どちらも我が家で一緒におります)

「お浄土はあるかないかじゃなくて、いくところなんよ。ないと困るやろ?」
「うん、困るな」
(終)

動物の往生について、ある先生は、
「犬には犬の阿弥陀さんのはたらきがあるんじゃないですかね」
とおっしゃいました。
それをそのまま伝えました。
しかしその根源には阿弥陀さんのはたらきというのがあるということも。

次男、
「ふーん、根源に阿弥陀さんがおって、犬には犬のイヌダさん、鳥には鳥のトリダさんがおるみたいに、人間にもそういう存在がおるんじゃないん?」
ほーほーナイス質問。
色んな仏さんおいでるけども、どの仏さんも阿弥陀さんの方向いてない人に、こっち向かせるようにはたらいてくださっとるんよ。
次男、
「そうか、そういうことか」

犬には犬のイヌダさん、鳥には鳥のトリダさん、次男の表現は中々達者です。
阿弥陀さんは、言葉でしか分別できない私に分かるように、南無阿弥陀仏という言葉となってくださった言葉の仏様でありました。

子供とご法義の話をするのは難しいです。
普段僧侶同士で話している用語や感覚は通用しません。
また、大人のお同行(共にお浄土へ歩む人生を生かさせてもらっている浄土真宗の信者さまのことです)には使える言葉も使えません。
煩悩という言葉を使おうと思ったら煩悩とは何か、を説明しないとなりません。
(大人のお同行にも説明しますが、なんとなく分かってくださいます、たぶん)
いかに適切な言葉を使うかも難しいです。

前々回の木山が、小手先のテクニックを使ってとやかく言うのをやめようと思うと書いてありました。
今私が言っていることはまるで反対なようにも聞こえます。
しかし木山が言うのは、こちら(話し手)から変に推測してあれこれ余計なお世話をしないということで、こちらの心持ちの問題なのかなと思います。
相手やその場によって言葉や「伝え方」を変えることと、「何」を伝えるか変えることは、全く別の話です。
子供と話すときも阿弥陀さんのこころ、お同行に話すときも阿弥陀さんの大慈悲心。
どちらも同じことを別の言葉で表現しているだけです。

子供と話すと勉強になります。
イヌダさんやトリダさんのように、子供の発想から学ばせてもらうこともあります。
子供の言葉の方が直球で分かりやすいこともしばしば。
なので私は仏教以外のことでも困ったら長男にヒントをもらったりしてます。
「あんたならどう言う?」と。
大体私よりいい表現が返ってきます。

さて今日は何を聞こう。

称名



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?