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法の雨が降る

こんばんは、那須野です。

今ほど東京の姉から姪甥の運動会の様子が送られてきました。
「ええ天気でよかったな」

このええ天気、もちろん雨が降らず、運動会に適した気候で何よりでしたね、という意味なのですが。
数日前の大雨には、皆さんもヤキモキしたのではないでしょうか。
我が家は長男の修学旅行沖縄への旅とも重なり、ずいぶん気を揉みました。
被害に合われた方々には、現在も心休まらないことを想像しますと、軽いお見舞いも申し上げにくいのが本音です。

さて、その雨ですが、お聖教にもしばしば登場します。
身近なところですと、『重誓偈』と呼び親しんでおります偈文の最後に
「此願若剋果 大千応感動 虚空諸天人 当雨珍妙華」
とあります。
「この願もし剋果せば、大千まさに感動すべし。虚空の諸天人、まさに珍妙の華を雨(ふ)らすべし」
とこうなります。
ここでは素晴らしい浄土の華の舞う様子が、雨に譬えられています。

先日、私たちがお育ていただいている行信教校で、専精舎という安居がありました。
安居というのは、インドの雨季に修行者たちがひと所に集まって、戒律の点検やお釈迦様から聞いたお言葉などをお互いに確認し合う期間のことで、一説には雨季で虫たちが出てくるのに、外を出歩いて踏み潰さないための妙策期間だとも言われています。
つまり、お釈迦さまがご在世中から続く集中勉強会のようなことです。

行信教校の専精舎でも、例に漏れず(というか現在ではその例がほとんど失われているのが実際だと思われます)、朝から晩まで仏教の勉強をする5日間を過ごします。
信じられないかもしれませんが、本当に朝から晩までなのです。
5時半の起床から勤行が始まり、深夜に及ぶまで次の日のための勉強をします。

こんな聞くだけで疲労困憊の専精舎ですが、昔から「専精舎中はよすみに法の雨が降る」と言われているそうです。
よすみというのは、行信教校がおかれる大阪高槻市の地名です。

ご法義はもちろんのこと、お念仏の雨が降り止まないのですね。
お勉強しながら「ナンマンダブ」
お聴聞しながら「ナンマンダブ」
お話ししながら「ナンマンダブ」
お酒飲みながら「ナンマンダブ」(ただし現役生を除く)


先の姉との会話のええ天気の話ですが、
よく、タクシーの運転手さんにとっては雨は恵みの雨と聞きます。
「悪い天気になりましたね」というと、
「我々にとってはお客さんを呼んでくれる恵みの雨です」というお返事。
立場や状況が変わると、雨の意味がずいぶん変わるんですね。

またこのあたりでは畑や田んぼにもやはり適度な日照と適度な雨が欠かせません。
それは何も農家さんだけの話ではなく、その恵みを分けていただく私のことでもありました。
雨が降ってもらっては困る時には迷惑がって、カラカラに乾いた土を見ては、そろそろ降ってくれんかなあ、と思う私であります。
雨はただ、そこに降っているだけなのに、です。
自分を中心にしか物事を見られない私の姿が浮き彫りになります。

お世話になっている先生の本を拝読していると、行信教校の名誉校長でもあります梯實圓和上の言葉が紹介されてありました。

「雨は、毒の草の上にも薬草にもおなじようにふりそそぐんですよ。なあに、毒の草と言うけれどもわれわれにとってそうなのであってその草を必要としている“いのち“もあるんでしょ…」

『あたりまえの不思議』星野親行師著



気が付けば自分勝手な判断、生き方しかできない私を、常に心配してくださっているのがお慈悲の阿弥陀様でした。
私のいのちの上にも、あの人のいのちの上にも、また今の私の上にも、過去から未来までどの私の上にも、おなじように降り注いでくださるのが阿弥陀様の願いでありました。
いつの私の上にも、願いの雨が降り注いであってくださるんですね。

過去も現在も未来も、私はそう区切って時間を分けてしまいますが、阿弥陀さんの方からはずーーっと“今“なんですね。


写真は、雨の日にまさに泥の中に咲く我が家の睡蓮です。

泥中の分陀利華

称名

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