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「なんで分かったんですか」と驚かれた日

ふりかえりのメンターをする中で、その時何を考えてその行動をとったのかというのを本人に代わり言語化する場面がある。

(私たちの会社では仕事の進め方や考えを内省し、メンターからフィードバックをもらう機会を週1で設定し、それを「ふりかえり」とよんでいる。)

本人に言語化してもらうということが基本にあるのだが、代わりにしちゃう場面も私にはある。
これはどんな時かというと、本人の感情がフラットではなく、結論ありきで話をしたがる時だなと思う。

例えば、失敗したという気持ちが強い時は、自分はいけてない思考を持っているかのような前提で、その時考えたことを説明しがちだなぁと思う。
でも、普段一緒に過ごしている私から見たらそんな感じの子でもないけどなぁと。

本人の感じている自分と、私から見えるその子の像にギャップを感じた時、どっちかだけが正しいということもないとは思うけど「もしかしたらこう考えてたんじゃない?」と伝えることをしている。
そうすると、わりと「そうかも。」と受け入れられることが多いし「なんで分かったんですか!」と驚かれる。

「自分でもわからなかった自分をわかってもらえている。」
と感じる状態は、確かにメンタリストっぽい凄さがある。でも、残念ながら私にそんな特別なスキルはないんだよなぁと思う。

何をしているのかというと、"できる限り論理的には矛盾がない状態でその状況を説明してる"のだと思う。
「こういう条件下の中では、こういう理由で、この選択をするよね。」という一般的にとりうるであろう行動例を示しているのだけど、その論理に納得感があると、あたかも自分もそうだったかのように思うのかなぁという気がした。

そう整理すると、「じゃあ、それって結局"その時、何を考えてその行動をとったのか"という問いの回答と違うじゃん。」という話になってくるわけで、「それってなんの意味があるんだろう?」とか思っちゃうんだけど、この話はまた別で考えよう…。

本当はどうだったかということが思い出せないことでも、後からの意味付けで納得感を得られるということは、現在の自分の認知が過去の自分を定義づけているということなんだと思う。
現在の自分が過去の自分を作っているという逆転は面白い現象だと思う。
そして、なんでか自分はついついポジティブよりに定義付けちゃうんだよなということを再確認する。本人は失敗したと思ってるんだからそのていで考えても良いのにね。

あとがき

こんな日々考えているとりとめのないことを、言葉にして残しておきたいと思ったので、思うままに書いてみた。
「思うままに」といいつつ変な編集脳が入ってしまって、思考の順番のままにはなかなか書けないもんだなぁと思った。


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