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講談は先輩たちが数百年の歴史の中で作ってこられた、また守ってこられた素晴らしい物語が約6000話ぐらいあるらしい!!
これも講談速記本が明治・大正時代に流行ったお陰です。

そして、講談のもう一つの魅力が創作がほかの伝統的な芸能よりもしやすいというところ。
いつの時代でも講談師は新作を作り続けていたんです。
つまり講談の伝統の1つは新作をつくること!!

ということで、僕も新作をかなり作っております。
その中でもシリーズ化しているモノもいくつかあって、その1つが天忠組。

『それを言うなら天誅組やろ!』
というお声も出そうですが、実は天忠組という言い方も正解なんです。

天忠組は幕末の奈良県五條市で代官所を襲い、明治維新の魁となり、吉野の山中でその思い果たすことなく、滅びていった方たちです。

今の時代からみると色んな評価ができますが、「世の中をよくしたい」と思った人々の純粋な気持ちがあったことだけは確かです。

そんな天忠組の講談は5~6本は作ったと思うのですが、その関係で奈良県五條市に頻繁に言っていた時期がありました。

その時にお話に聞いていたのが、鍵屋のこと!
そう、あの花火の「か~ぎや~」の鍵屋です。
実は鍵屋さん。五條市で生まれ育ち、火薬の勉強をし、花火を作ったら結構綺麗にできて、花火で盛り上がっていた江戸に出て、花火師として成功した方なんです。

そんな中、1732年に疫病のコレラが流行って、沢山の方が亡くなったそうです。慰霊、悪霊退散のために水神祭が行われました。
そして、その次の年、1733年の両国川の川開きの5月28日から3か月間、8月23日まで毎日、花火を上げるようになったんです。
それを担当したのが何と鍵屋さん!!
1733年ですから、288年前の今日です。

最初は「か~ぎや~」だけの掛け声だけだったんですが、1808年、番頭さんがのれん分けをしてもらって「玉屋」をはじめました。
ええ名前ですね!!
玉屋。
歌舞伎の世界みたいに、僕が高座にあがったら「たまやっ!!」って呼ばれる日がくるかなぁ(笑)

それ以来、両国橋の上流は玉屋、下流は鍵屋が担当するようになりました。
なんか反対のような気がしますが、本家の鍵屋が下流、分家の玉屋が上流!!
不思議やなぁ。
どなたかご存じでしたら、教えて下さい!!!

ちなみに、鍵屋さんが信仰されていたのがお稲荷さんだったとか。
お稲荷さんの門前のキツネの像をよく見てもらうとわかるのですが、何かを咥えています。
左が「鍵」、右が「玉」を咥えてるんですって!!
だから、「鍵屋」と「玉屋」。

勉強になるでしょう!!!!(笑)
師匠がよくおしゃっておられました。
「講談を聞くとタメになる。落語を聞くとダメになる」と!!
ぼくはそんなことは思っておりませんので、あしからず!!!

講談は知的好奇心の扉を開きます。
どうぞ皆様、奥に進んで、あとは、お1人お1人でお楽しみ下さい。
きっと刺激的な時間が過ごせるはず。

ぼくは鍵屋の物語でも考えようかなぁ…。
なぜ、鍵屋は江戸にでようと思ったのか。
あっ!!!
ふふふ。
物語が動きはじめた♪♪

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