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先代・玉秀斎の人生は虎列剌(コレラ)に大きく狂わされてしまいます。

明治、大正時代前は当たり前のようにコレラが流行って、バタバタと人が亡くなっていたようなんです。
ほんの130年ぐらい前のお話です。

そんなコレラに先代がどのように翻弄されたのかの物語をお取次ぎ致します。

先代・玉秀斎のルーツは京都にあります。
京都の神職の家で生まれたんです。
ところが、どうしたことか、神職を継がずに大阪に行き、錫職人の元で修行をはじめました。
そんな中で聞いた初代玉秀斎の講談。
『この人みたいな講談がどうしても語りたい』
と、初代・玉秀斎の門を叩きました。
そして、頂いた名前が玉田玉鱗。

一生懸命修行をし、それなりの講談をしはじめた時、高座の機会が減りました。
その原因が疫病流行だっんです。
疫病の蔓延により、劇場が使えなくなった。
その時に玉鱗は東京に行く決心をします。
初代・玉秀斎に許可を頂き、東京の講談席で腕を磨きました。

ところが、数年後に大阪に帰ってきたときには、大阪で全く受けない講談になっておりました。
変な感じで東京ナイズされてしまっていたんです。
大阪弁で喋ってた人が、急に東京弁で語り始める感じしょうか・・・。

そんな中でも、奥さんと子供を養うだけの講談師人生を送っておりましたが、その時にまたコレラが蔓延しはじめたのでした。
その流行により、なんと奥さんと子供を亡くしてしまった。

絶望の淵に追い込まれた玉鱗は、大阪の地を離れることにしました。
「もう俺が大阪にいる理由はない」

こうして、彼は西へ西へと進みながら、各地のお金持ちのところでお世話になりながら、講談をさせて貰っておりました。

地方で上方の本格的な講談を聞く機会がありませんから、お客様の反応がめちゃくちゃいいんです。
連日満員のお客様が押し寄せる。
玉鱗は自信を取り戻し、お金も入るようになりました。
そんな公演を旅先で続けていたんです。

たまたまやってきた町で、ふと目の前を見ると瀬戸内海。
その向こうにうっすらと陸が見える。
「向こうに見えるのはどこなんだろう」
この言葉を独り言で言ったときにたまた近くにいた人に聞えた。

「あぁ、あれは今治ですよ!」
「今治・・・。そういえば四国には行ったことがなかったなぁ。これも何かの縁、よし、行ってみよう!!」

こうして、今治へと渡った玉鱗は、そこでお敬さんという女性と運命の出会いを果たします。
この辺りの詳しいことは、『3代目・玉田玉秀斎物語』で語らせて頂いておりますので、また講談でお聴きください(笑)。

そのお敬さんと駆け落ちし、連れ子たちも大阪にやってくることになりました。
大阪にやってきたお敬さんが、玉鱗に玉秀斎を継がせる工作をするんです。
その方法は皆目見当がつきませんが、何と成功したんです。
そして、遂に玉秀斎を襲名することになりました。
さらにはお敬さんの元に集まってきた子供たちと一緒に作り上げたのが世の中を変えた立川文庫でした。

つまり、疫病がなければ、玉秀斎は立川文庫を出版することもなかったんです。

『たまたま』といえば、『たまたま』ですが、妻子の死という最大の悲しみで留まるのではなく、その悲しみを何とか乗り越えようとあがいた結果、招いた幸運だったように思えます。

しかし、玉秀斎の立川文庫の活躍も200巻を超す頃には陰りが見え始めておりました。
そんな中、玉秀斎の体調が悪くなる。
検査をすると、なんとコレラでした。
流行病ですから、家族とは普通に会えない。
そんな中で先代・玉秀斎は最後の日を迎えます。

まさに、先代・玉秀斎は疫病に翻弄された人生でした。
今、こんな世の中だからこそ、同じ名前を襲名した者の責任のようなものを感じます。

色んな悲しみがありますが、物語は人々を幸せにするもの。
それが玉田家の伝統です。
今だからこそできる物語を動かしていきたいと思っております。


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