6/14(金)19時~北浜・青山ビルで開催の『船場トンデモ人物伝』は『今橋通』について陸奥さんに語って頂き、それを元に玉秀斎が即興講談を語ります。

5/23(木)に開催された『内北浜通』の時に陸奥さんが話されたことのメモを参考までに書いておきます。ご興味を持たれた方は是非、6/14(金)19時~青山ビルにお越し下さいませ。

以下、5/23(木)『内北浜通』のメモ(聞き間違い、書き間違いがあるかもしれません。)

●梶木町と過書町。
その町に住んでいたのが松尾芭蕉の門弟で伊勢出身の神主の嫁となっていた園女。この方は日本名女噺にも出てくるお方。
→江戸深川の八重桜を折る輩が続出。それを止めるために八才の女の子が句を吊って、その蛮行を改めさせた。
芭蕉が大阪に来た理由は、門弟同士の喧嘩の仲裁。
元禄7年9月10日に来阪し、体調を押して、園女の宅(明確にどこかはわかっていない)で句会を開いたのが9月27日。
結果的にこれが芭蕉にとっての最後の句会となる。
芭蕉が園女に詠んだ句
白菊の 目に立て見る 塵もなし

●池内大学 
京の商家で生まれる。医者となって家を復興させるはずが、儒教の道に進む。ペリーなどの来日のため、海防の重要性を説く。
井伊直弼の安政の大獄のときに、直弼に頭を下げて尊王攘夷を取り下げたことにより許された。(2498巻の本も没収)
それが恨みを買う。
山内容堂の来阪時、池内大学は容堂の要請で藩屋敷に伺い、色んな考えを述べる。
深夜の3時に『内北浜通』の家の前で岡田以蔵たちにより、首を切られ、なにわ橋にさらされる。耳は中山大納言に送られた。

●木津宗詮。木津村の願泉寺の35世。
願泉寺は四天王寺の伶人輩出の寺で、伊達政宗寄進の茶室があった。
お茶は武者小路千家。
松平不昧公と仲良し。
住友の慶沢園(今は天王子公園内)、四天王寺の極楽浄土の庭(二河白道)を設計。
この方が梶木町に住んでいたことがある。

●大西閑雪 幕末の能は武士たちが教養として見る。
明治になると、能楽師たちの舞台がなくなり、お菓子屋、写真屋、先生、雑貨屋などで生活をしのぐ。
京都からは大阪の能は町の謡とバカにされる。
その中で精進し続ける。
明治20年に明治天皇が大阪行幸の折、天覧能「船弁慶」。
大阪能楽会館ができたのも大西閑雪のお陰。

●梅原亀七 書肆「河内屋」の長男
明治32年 東京と大阪の電話線は一本のみ。
その限定された状況で亀七は電話線を独占。
株式の売りの一手の注文で莫大な儲けを生む。
これは『仲買電話つなぎきり事件』と呼ばれ、これ以降、1通話5分の約束事が出来上がった。
この時の儲けがもとで、洋式の御殿を建てたのが内北浜通。
そして、帝国新聞(後の大阪日日新聞)を創刊。

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