オリンピックの敗者

 オリンピック、ただでさえ4年に1度の開催というレアな大会であり、なおかつそれが自国で開催されるのは一生に1度あるかないかの幸運である。開催に際しての賛否両論があれど、当事者としては一世一代のイベントであり、見る側だってそれは分かっているから、何はともあれ戦う姿を見て少なからず感情を揺さぶられる。そしてそんな大舞台で目標を達成した選手達がいる一方、望む結果を得られず俯く姿をカメラに映さざるを得ない選手もいる。そしてどうしてだか、きらびやかな成績を残したメダリストと同じかあるいはそれ以上に、苦汁をなめた選手のほうに心を奪われることがある。

 負けにも様々なパターンがある。まず1つが、「勝者との間に実力の差があり、それが結果に反映されたパターン」。陸上男子100mや、男女サッカーがこれにあたる。もう1つが「圧倒的な実力、あるいはメダルに手が届く実力を持っていると思われていたものの、予想を下回る結果に終わったパターン」。競泳・瀬戸大也選手やバドミントン・桃田賢斗選手はこのパターンであろう。

 男子サッカーはレギュレーション上、どの国もベストメンバーというわけではなかったが、日本代表は18年W杯に引き続き、決勝Tで欧州強豪国と真剣勝負を演じた。内容にはスコア以上の差があり、客観的な評価をすれば結果は順当なものであったが、スペインの猛攻を凌ぎ続け、延長後半までタイスコアで戦ったあの試合はとにかく勝負としてエキサイティングだった。一方で、2つ目のパターン、本番の大舞台で大本命が敗れる波乱も、見る側としては非常に大きなインパクトのある出来事である。しかしこのパターンは実は1つ目と本質的には似ている。瀬戸大也選手は予選で力を温存し、大バッシングを浴びたが、決勝で100%力を出すためには予選を全力で戦っている場合ではないのは明らかである。要は予選で力を抜いたことがダメだったのではなく、力を抜いても勝つだけの力がなかったことが敗因なのだ。つまるところ、勝った者との間には、(レースを読む観察眼なども含めて)総合的に力の差が実はあり、だから負けた、と考えるのが妥当なのではないかと思う。自分(自チーム)と相手がいて、自分より相手が優れていました、だから負けました、ということだ。

 一方でそれとは別に、「一義的に見れば試合には敗れているが、それを超越したものを本人が感じているであろうパターン」というのもある。当然五輪は(というかそもそもスポーツは)各競技のルールにのっとって優劣を序列化し、優れた結果を残したものを表彰するものであるから、自分より良い結果を残した選手が何人もいるという状況は“負け”にカテゴライズされるはずである。とはいえおかれていた立場、競技の歴史、そうしたものによって目指した結果も違うから、例えばベスト8に残れたから満足、とか、スタートラインに立てたからOK、という評価だってあり得る。客観的・一般的な軸による勝利/敗北のボーダーラインが、時にぼやけるのもまたスポーツの特徴かもしれない。

 今回、競泳の萩野公介選手は前回覇者ではあったが優勝候補ではなかった。絶望的なスランプから這い上がって五輪の舞台にみたび立つことができたのは周知の事実だが、不安を携えながら、過去の自分に遠く及ばない記録に一喜一憂しながら、そして最後に盟友・瀬戸選手とともに泳ぐ決勝の舞台にたどり着くことができたことを喜ぶ姿には、遠い世界の一流アスリートではなく、進むと戻るを幾度となく繰り返す一人の人間としての顔を見た気がした。

 もちろん勝負ごとは勝つことを目標にしなければ成り立たない。最終的に勝利という結果を手にするに越したことはない。それでも勝負の場に立つことができたことへの喜びが、萩野選手を筆頭に色濃く見えた大会だったように思った。

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