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調査地に行きたくない話

 唸るほどの田舎。マレーシアはボルネオ島の山間の町に滞在しながらそんなことばを発していた。四方を見渡すと緑のジャングル。大阪うまれの僕にはあまりにも田舎すぎた。

 この国は周辺国と比べると頭ふたつくらい抜けた経済力がある。経済力があるのでこの山奥でもみんな車に乗っているから渋滞が発生する。その渋滞が発生するのは日曜日。教会に入る車の列が目抜き通りを塞いでいる。それだけカトリックの信徒が多い地域で、マレーシアのカトリックを研究する僕にとって調査地になり得るだろうかと予備調査に来ていた。

 車社会だというのに町で唯一のレンタカー屋は僕の連絡を途中から無視した。いつまで経っても返事がこなかったのでキャンセルさせろと連絡を入れると、了解ですというメールがすぐに返ってきた。僕のような短気な人間はたぶん田舎では生きていけないのだろう。
 近くの村の教会に行ったとき中学生たちがミサ奉仕の練習をしていて、おわったあとにしばらく話していた。帰る段になるとみんなバイクに跨り、僕の投げた質問には「俺たちまだ15歳だよ。免許あるわけないじゃん」と言いながら走り去っていった。ちょっと教会に行くのにも自前の乗り物がないと生きていけない田舎である。

 公共交通機関もそんなに発達しておらずあまり身動きはとれなかった。いちおうミニバスという乗合バンがあり、周辺の村だったり少し離れた町とこの山間の交通の要衝を結んでいるが、時刻表があるのかないのかわからない。挙句には隣町に行った日に昼過ぎに最終バスがなくなって町に戻れなくなった。

 エスカレーターがある建物は町にひとつだけ。そのショッピングモールには暇を持て余した地元のカップルが手も繋がずに退屈そうな顔でうろうろしている。でもああいうデートいいんだろうな。ただふたりでいるだけの時間を過ごすみたいなかんじ。

 そうそう、肝心の調査にかんしては思っていたよりは順調だった。いや、順調ではないのだけれど、まったく知り合いがいない状態で乗り込んだにもかかわらず思ったよりは相手にしてもらえたということだ。というのも中国語ミサで「でかい声で歌っている人がいると思ったら見たことのない奴だった」と教会役員に声をかけてくれたことがきっかけである。僕と10年以上も付き合いがある中国語、そして持ち前の図太さと声のでかさが活かされ、あれよあれよと知り合いが増えた。

 これだけ田舎だのと文句を垂れているが、僕が過ごしたのは実のところたった3週間だけである。その短い期間でもあまりに田舎生活がきつくて「もう二度とここには来ない」と思っていた。やることもないので毎日夜市に通っていた。この近くはタバコのプランテーションがありタバコ商人がたくさんいる。毎日行っていると顔を覚えられ、ふだんまったく吸わないのにここでは吸っていた。

 夜市では毎晩バンドが路上ライブをしていた。町を離れる前夜、洗濯機を回しているあいだに彼らを見ていると「俺たちチャイニーズの歌もできるよ」と言って広東語の曲を歌ってくれた。Beyondの「不再猶豫」。もう諦めない、という曲だ。誰人定我去或留(誰がおれを止めるんだ?)という歌詞にはっとした。
 学部から直接進学ができず、わざわざ勤め人を辞めて、研究がしたいと大学院に入って、だからいまボルネオにいるんだなあとか思いながらしんみり聴いていた。
 バンドを組んでいる彼らはたぶん先住民ドゥスンの人たちでマレー語の曲を歌っていて、でもこうして肌の白い僕を華人だと思って広東語の曲を歌ってくれた。これが自分が好きなマレーシアだった。違う民族どうしがいっしょに暮らす社会で、ときに他者に少し見せる優しさ。きっとここはいい町だ。

 僕がボルネオに行ったのはもちろん調査のためであるが、もちろんここがどのようなところなのかを知る必要があると思ったから訪れた。

 青年のグループがミサでドゥスン語の聖歌を歌っている動画があがっていた。それが撮られたのはサバではなくクアラルンプールで、彼らの故郷から海を隔てた1000km以上先に移住した人たちが歌っていたものだった。サバ独特の明るいリズムに合わせて身体を揺らしながら笑顔で声を出している人たち。その動画に「村の教会みたいで懐かしいなあ。サバに帰りたい」というコメントがついていた。
 村の教会に響く聖歌。彼らが感じる懐かしさというのを身もって体感しておく必要があると思った。でなければサバまで来ていない。

 たしかにこの田舎と比べるとクアラルンプールでの生活はまったく違うものになるだろう。もう行きたくないと思わせられているが、その土地がどんなところなのかを知ろうというのは、研究者としてもマレーシアを好きな人間のひとりとしてもだいじな感覚だと思う。
 無免許バイクで走り去っていった中学生たちのなかにも、彼らが奉仕の練習をしていたあの村の教会が懐かしいと思う日がいつかくるのかもしれない。そのときに彼らが感じる懐かしさを少しでも(言語化できなくても)共有できるようになったとき、僕は研究者としてもマレーシアとかかわる人間としても何かを得ているのだろうと思う。

 山のなかで見た、水田に伸びる稲が刈られる収穫祭の時期、また訪れることができないかと計画している。

教会から無免許バイクで家に帰る少年たち

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